・・・ 酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈の跡や、粉をこねた臼のようなものもころがっていた。娼家の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻でわれわれを待ち合わせるよ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・但し米屋酒屋の勘定を支払わないのが志士義人の特権だとすれば問題は別である。 わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮気兼をする事がなくなったので、おのずから花柳小説『腕くらべ』のようなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好み・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ちょうど、今、あの交番――喜久井町を降りてきた所に――の向かいに小倉屋という、それ高田馬場の敵討の堀部武庸かね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいう桝を持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたし・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・一月七、八円の学費を給し既に学校に入るれば、これを放ちて棄てたるが如く、その子の何を学ぶを知らず、その行状のいかなるを知らず、餅は餅屋、酒は酒屋の例を引き、病気に医者あり、教育に教師ありとて、七、八円の金を以て父母の代人を買入れ、己が荷物を・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・なんて云いながら目をさまして、しばらくきょろきょろきょろきょろしていましたが、いよいよそれが酒屋のおやじのとのさまがえるの仕業だとわかると、もうみな一ぺんに、「何だい。おやじ。よくもひとをなぐったな。」と云いながら、四方八方から、飛びか・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・それより山男、酒屋半之助方へ参り、五合入程の瓢箪を差出し、この中に清酒一斗お入れなされたくと申し候。半之助方小僧、身ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候処、山男、まずは入れなさるべく候と押して申し候。半之助も顔色青ざめ委細承知・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・ 酒屋の御用聞に道を教わって、何年も代えない古ぼけた門の前に立った時、気のゆるみと、これからたのむ事の辛さに落つきのない、一処を見つめて居られない様な気持になった。 大小不同の歩き工合の悪い敷石を長々と踏んで、玄関先に立つと、すぐ後・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 下の婆さんは、ガード下に居たとき近所の人に、小さい女の子と、酒屋の十ばかりになる小僧を一寸見てやって下さい、とたのまれたので、その子にすがりつかれたばかりに何一つ出さずにしまった。 ばあさん曰く「憐れとも何とも云えたものじゃああり・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・ この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城河岸の檀那と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏は細木、定紋は柊であるが、店の暖簾には一文字の下に三角の鱗形を染めさせるので、一鱗堂と号し、書を作ると・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・そして、亀山で酒屋へ這入ってたのかな?」「酒屋や、十五円貰うてたのやが、お前、どっと酒桶へまくれ込んでさ。医者がお前もう持たんと云いさらしてのう。心臓や、えらいことやったわ。」 秋三は勘次の姿が裏の水壺の傍で揺れたのを見ると、黙って・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫