・・・ 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡げた。「僕も一寝入りして来るかな。」 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきり・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積した怒りを一時にぶちまけるように嘶いた。遙かの遠くでそれに応えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。 夫婦はかじかんだ手で荷・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その時百姓は穿いて居る重い長靴を挙げて、犬の腋腹を蹴た。「ええ。畜生奴、うぬまで己の側へ来やがるか。」犬は悲しげに啼いた。これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ そうしてるうちに、一時脱れていた重い責任が、否応なしにふたたび私の肩に懸ってきた。 いろいろの事件が相ついで起った。「ついにドン底に落ちた」こういう言葉を心の底からいわねばならぬようなことになった。 と同時に、ふと、今まで・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ ややあって、鼠の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。 指すとともに、ハッという息を吐く。 渠飢えたり矣。「三ちゃん、お起きよ。」 ああ居てくれれば可かった、と奴・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 政さんに促されて満蔵は重い口を切った。「おとよさアが省作さアに惚れてる」「さアいよいよおもしれい。どういう証拠を見た、満蔵さん。省作さんもこうなっちゃおごんなけりゃなんねいな」 口軽な政さんはさもおもしろそうに相言をとる。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と一声、僕は強く重い欝忿をあびせかけた。「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にすり寄って来た。「ええッ、穢れる、わい!」僕はこれを押し除けて、にらみつけ、「知らないと思って、どこまで人・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を重い荷車の轍で轢かれるのでした。 天使でありますから、たとえ破られても、焼かれても、また轢かれても、血の出るわけではなし、また痛いということもなかったのです。ただ、この地上にいる間は・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・し、おまけに上さんは美しいし、このまま行けば天下泰平吉新万歳であるが、さてどうも娑婆のことはそう一から十まで註文通りには填まらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラ病いついて、最初は医者も流行感冒の重いくらいに見立てていたのが、近ごろよう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開いているが、如何しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝、鼠地の縞物で、お召縮緬の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰も上から何か重い物に、圧え付けられるような具合に、何・・・ 小山内薫 「女の膝」
出典:青空文庫