・・・何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼きの色を見せて、溜室の方へと走り行きぬ。定めて朋輩の誰彼に、それと噂の種なるべし。客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・この時いずこともなく遠雷のとどろくごとき音す、人々顔と顔見合わす隙もなく俄然として家振るい、童子部屋の方にて積み重ねし皿の類の床に落ちし響きすさまじく聞こえぬ。 地震ぞと叫ぶ声室の一隅より起こるや江川と呼ぶ少年真っ先に闥を排して駆けいで・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・結婚前に遊戯恋愛や、情事をつみ重ねようとすることは実に不潔な、神聖感の欠けた心理といわねばならぬ。不潔なもの、散文的なもの、いかがわしいものはすべて壮年期に押しやって、その青春の庭をできるだけ浄く保たねばならぬ。そしてともかくその庭で神聖な・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・杜氏は、恭々しく頭を下げて、伏目勝ちに主人の話をきいた。「与助にはなんぼ程貸越しになっとるか?」と、主人は云った。「へい。」杜氏は重ねてお辞儀をした。「今月分はまるで貸しとったかも知れません。」 主人の顔は、少時、むずかしくなっ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ろいろ困苦勤勉の雛型その物の如き月日を送りながらに、自分の勉強をすること幾年であった結果、学問も段進んで来るし人にも段認められて来たので、いくらか手蔓も出来て、終に上京して、やはり立志篇的の苦辛の日を重ねつつ、大学にも入ることを得るに至った・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・韓退之所謂務去陳言戞々乎其難哉とは正に此謂いなり、若し古人の意を襲して即ち古人の田地の種獲せば是れ剽盗のみ。李白杜甫韓柳の徒何ぞ曽て古今を襲わん。独り漢文学然るに非ず。英のシエクスピールやミルトンや仏のパスカルやコルネイユや皆別に機軸を出さ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・何時もズロースなんかはいたことがないのに、押入れの奥まったところから、それも二枚取り出してきて、キチンと重ねてはいた。それから財布のなかを調べて懐に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・その反古は今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重ねて、同じ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味のあった処だ。 北村君の文学生活は種々な試みを遣って見た、準備時代から始まったものではあるが、真個に自分を出して来る・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄は、ただ一語、「諦め」ということに過ぎない。その諦めもほんの上っ面のもので、衷心に存する不平や疑惑を拭い去る力のあるものではない。しか・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・王さまは、すぐにウイリイをお呼びになって、「これはどうした画か。」とお聞きになりました。「私が画きましたのでございます。」とウイリイが申しました。王さまは重ねて、「まだほかにもあるか。」とお聞きになりました。ウイリイは正直に、ま・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫