・・・雨気を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処を得顔に勢づいて吹き廻っているよ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。 毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった。 ――依田君。六時まで、三時から君を待ったが、来ないから、僕はM署へ持って行かれ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・ 眠りなおして八時過に起ても、私は何となく頭が重苦しいのを感じた。熟睡して醒めた後誰でも感じる、暖かに神経の末端まで充実した心持。それがなく、何だか詰らない、疲労の後味とでも云うようなものが、こびりついて居るのである。 新奇なこ・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・、官僚的な重苦しい「公」で、何となく抑えつける余地でもあるように、扱われています。 思えば、戦争中、私たち全日本人は「滅私奉公」という一字で、万端をしめくくられて来ました。けれども、今日になって、その時をかえりみれば、「私」を滅して・・・ 宮本百合子 「公のことと私のこと」
・・・ 今まで後ばかり向き続けていたお君の存在が其処で或る点まではっきりするばかりでなく、舞台裏から迄見守る実意があれば、あの場合、重苦しい着物をゆるめる気になるのが、女として心持の上で必然なのである。 お絹に、遺品として蛇を貰ったところ・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・石づくりの、でっちりとした重苦しい墓で、それは漱石の心に反した。心ある人々は、死んで、抗議の云えない人の墓を、生前好かれていなかったと知っている者が、今こそと自分の生得の力をふるってこしらえた心根をいやしんだ。そして、漱石を気の毒に思った。・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・まじめに考えさせるようなモメントは重苦しいとしてみんなきりすてて、スリル中心に読者をひっぱって行って、一定の雰囲気の影響のもとにおくジャーナリズムの方法が、「一生一代の勇敢なる冒険『創作を書く』ことを思いついた」著者の文筆におのずからそなわ・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
・・・そのとき感じた重苦しい心持はきわめて生々しいものであった。そして、祖父を親しみなく遠く感じる思いがまさった。この祖父が僅か三つばかりの孫娘を見て、この子はよくなるか、わるくなるか、どっちかだ、と云うようなことを云った言葉を、母がまた私が自分・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・それを作ったひと一人だけの趣向だけが強調されているものは、道具類だと猶更重苦しいと思う。 この意味で、美しいもの、という観念が私たちの生活のなかでもっともっと贅肉のとれたものとならなければならないだろう。ものの美しさは、生活の裡で時、場・・・ 宮本百合子 「生活のなかにある美について」
出典:青空文庫