・・・ 自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。「寒いのね。こんなに寒いと思わなかったわ。東京では、もうセル着て歩いているひとだってあるのよ。」運転手にま・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・私は尚も言葉をつづけて、私、考えますに葛の葉の如く、この雪女郎のお嫁が懐妊し、そのお腹をいためて生んだ子があったとしたなら、そうして子供が成長して、雪の降る季節になれば、雪の野山、母をあこがれ歩くものとしたなら、この物語、世界の人、ことごと・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・○もとをただせば、野山のすすきか。○あたりまえの人になりたい努力。○所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。○KR女史に、耳環を贈る約束。○人の子には、ひとつの顔しか無かった。○性慾を憎む。○明日。・・・ 太宰治 「古典風」
・・・あたしは、もう十年も津軽から離れていたので、津軽の春はワンステップでやって来るという事を、すっかり忘れていて、あんなに野山一めんに深く積っている雪がみんな消えてしまうのには、五月いっぱいかかるのじゃないかしらと思っていたの。それが、まあ、ね・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・また自然の野山に黙って咲く草木の花のように、ありとあらゆる美しい事、善い事が併立して行かれないからと言って、そのためにこの世をはかなんで遁世の志をいだくというわけでもない。 宣伝が理想的に行なわれて天下を風靡する心配がないからこそ世に宣・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・ 雑草といえば、野山に自生する草で何かの薬にならぬものはまれである。いつか朝日グラフにいろいろな草の写真とその草の薬効とが満載されているのを見て実に不思議な気がした。大概の草は何かの薬であり、薬でない草を捜すほうが骨が折れそうに見えるの・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・本当の野山をいくら捜してもない樹木の配置、木と木との組み合わせ等を狭い都会の空地に故意とらしく造るより、自然の一隅で偶然出会って忘られない印象を与えられた風景の再現を目標として、工夫を凝すなら凝したい。 茶道の名人達は、その感情を深く味・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
・・・田舎らしい単純と、避暑地のもつ軽快な華美とが見えない宙で溶け合って、一種の氛囲気を作っている此処では、人間の楽しい魂が、何時も花の咲く野山や、ホテルの白い水楼で古風なワルツを踊っているような気がする。 濃碧の湖には笑を乗せて軽舸が浮く。・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・ 私が今斯うやって、双眼に涙を泛べながら、思いに沈んで居る時、遠い海を越え、野山を踰えた彼方の彼方の何処かにも、矢張り、私と同じ恐れと愛に慄えながら、彼等の「祖国」を思う人は無いだろうか。 我が友よ。我が愛する友よ。厳粛に心を鎮めて・・・ 宮本百合子 「無題」
・・・そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山に登らせることにした。二人が剃髪した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍の股引を穿いて、脚絆を当てていた。懐中には一・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫