・・・敗余の意気をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴って秋気来るヘン 忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたる余は徐ろに眼を放って遥かあなたの下を見廻す、監督官の相図を待って一気にこの坂を馳け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁余、傾斜の角・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂み躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙く者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめた・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・矢張り例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業はここに止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍にして情緒の纏綿せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりし・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・色気と野心、我輩を支配して居った所の色気と野心、それは何であるか。ちょっとすれちがいに通って女に顔を見られた時にさえ満面に紅を潮して一人情に堪なかったほどのあどけない色気も、一年一年と薄らいで遂に消え去ってしもうた。昔は一箇の美人が枕頭に座・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ 作者が、私の想像するように、早苗を真心から愛したく思っていたのに、彼の性格的な運命から事は悉く失敗し、最後に彼を捕えたのは、愛でもなく、沈思でもなく、何処までも彼を追い立てて行く武将の野心であったとするならば、最後の一句は、決して、其・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・ 作者がこの作品に対して野心的な態度をもって向ったことは、以上のような文学としての誤りそのもののなかにも十分窺われると思う。作者は当時口々に云われしかも深刻な日本の現実を理由として、当然未解決のまま息苦しくおかれていた思想の諸課題を、戦・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
・・・御殿へ出て、はじめてクリスチナの身分がわかり、結婚をする気でいた野心家の貴族との張り合い、その他所謂映画らしい、いきさつがあって、クリスチナが到頭退位してそのスペインの男が帰国する船へかけつけると、当の対手は敵役に決闘をしかけられ既に瀕死。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 六、党派的野心ありや 党派という程のものがあるかどうだか知らない。前に云った草平君の間柄だけなら、党派などと大袈裟に云うべきではあるまい。 七、朝日新聞に拠れる態度 朝日新聞の文芸欄にはいかにも一種・・・ 森鴎外 「夏目漱石論」
・・・そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれを煽り立てて行く。その結果、大将は、智謀を軽んじ、武勇の士をことごとく失ってしまうことになる。なぜかと言えば、侍の・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫