・・・ 春霞たなびく野辺といえどもわが家ののどけさには及ぶまじく候 ここに父上の祖父様らしくなられ候に引き換えて母上はますます元気よろしくことに近ごろは『ワッペウさん』というあだ名まで取られ候て、折り折り『おしゃべり』と衝突なされ候ことこれま・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会い・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・始めよりかれが恋の春霞たなびく野辺のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年今さらのように感じたり。 かれに恋人あり、松本治子とて、かれが二十二の時ゆくりなく相見て間もなく相思うの人とな・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・あなたは歩きながら、山辺も野辺も春の霞、小川は囁き、桃の莟ゆるむ、という唱歌をうたって。 ゆるむじゃないわよ。桃の莟うるむ。潤むだったわ。 そうでしたか。やっぱり、あの頃の事を覚えていらっしゃるのですね。それから、私たちは浪岡の駅に・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ただ科学の野辺に漂浪して名もない一輪の花を摘んではそのつつましい花冠の中に秘められた喜びを味わうために生涯を徒費しても惜しいと思わないような「遊蕩児」のために、この取止めもない想い出話が一つの道しるべともなれば仕合せである。・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・斎藤豊作氏の「落葉する野辺」など昔見たときは随分けばけばしい生ま生ましいもののような気がしたのに、今日見ると、時の燻しがかかったのか、それとも近頃の絵の強烈な生ま生ましさに馴れたせいか、むしろ非常に落着いたいい気持のするのは妙なものである。・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・曙覧の家にいたる詞おのれにまさりて物しれる人は高き賤きを選ばず常に逢見て事尋ねとひ、あるは物語を聞まほしくおもふを、けふは此頃にはめづらしく日影あたたかに久堅の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳の鼓うつ頃・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 女車の中の人達も、久々で野辺の景色や、里の女達に賞められたりうらやまれたりするので祭りに出た時のような気持になってうれしさにまぎれて居たが段々日影も斜になって来るしあう人もまれになると淋しさが身にしみて高く話して居た声もいつかしめって・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・それからそのしかはいろいろにそだてて呉れて彼の森に居るこま鳥に歌を習わせたり、川の流れに詩を習わせたり、野辺に咲く花に身のつくり方をおしえてもらったりして今日まで大きくなりましたの。それでその鹿は『お前は必(して私の生きて居る内人に会っては・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫