・・・ 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 単調な機場の機の音は毎日のようにお三輪の針仕事する部屋まで聞えて来ていた。お三輪はその音を聞きながら、東京の方にいる新七のために着物を縫った。亡くなった母のことが頻りに恋しく思い出されるのも、そういう時だ。お三輪はあの母の晩年に言った・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・彼女は別に悪い顔もせず、ただそれを聞き流したままで家へ戻ってみると、茶の間の障子のわきにはお初が針仕事しながら金之助さんを遊ばせていた。 どうしたはずみからか、その日、袖子は金之助さんを怒らしてしまった。子供は袖子の方へ来ないで、お初の・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・茶の間には末子が婆やを相手に、針仕事をひろげていた。私はその一つ一つ紙にひねってあるボンボンを娘に分け、婆やに分け、次郎のいるところへも戻って来て分けた。「次郎ちゃん、おもしろい言葉があるよ。」と、私は言った。「田舎へ引っ込むのはね、社・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・嫂も、あの時、針仕事をしていたのだそうであるが、花火の音を聞いたら、針仕事を続けることが出来なくなって、困ってしまったそうである。兄は、私たちの述懐を傍で聞いていて、「おれは、泣かなかった。」と強がったのである。「そうでしょうか。」・・・ 太宰治 「一燈」
・・・「いや、針仕事をしながらでいい、落ちついて聞いてくれ。これは、お国のため、というよりは、この町のため、いや、お前たち一家のために是非とも、聞きいれてくれろ。だいいちには、圭吾自身のため、またお前のため、またばばちゃのため、それから、お前・・・ 太宰治 「嘘」
・・・ 私は隣りの四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。 ねむられないのです。隣室の夫も、ねむられない様子で、溜息が聞え、私も思わ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・丸顔で、そんなに美人でもないようですが、でも、みどりの葉影を背中に受けてせっせと針仕事をしている孤独の姿には、処女の気品がありました。へんに気になって、朝ごはんの時、給仕に出て来た狐の女中に、あの娘さんは何ですか、とたずねてみました。狐の女・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・あるいは同じ馬であったかも知れぬ。針仕事をしていたようであった。しばらくしては立ちあがり、はたはたと着物の前をたたくのだ。糸屑を払い落す為であったかも知れぬ。からだをくねらせて私の片頬へ縫針を突き刺した。「坊や、痛いか。痛いか。」私には痛か・・・ 太宰治 「玩具」
・・・三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしていた。ふと口を噤んだ。それきりだったのである。うらうらと晴れて、まったく少しも風の無い春の日に、それでも、桜の花が花自身の重さに堪えかねるのか、おのずから・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫