・・・ 御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの燕子花を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の逍遥した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。 すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・そんなにお美しくていらっしゃるのに、縁遠くて、一生鉄漿をお附けせずにお暮しなさったのでございます。「わしという万年白歯を餌にして、この百万の身代ができたのじゃぞえ」 富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、・・・ 太宰治 「葉」
・・・「君はいったい、誰に見せようとして、紅と鉄漿とをつけているのであるか。」 答。「みんな、様ゆえ。おまえゆえ。」 へらへら笑ってすまされる問答ではないのである。殴るのにさえ、手がよごれる。君の中にも!わが神話 いんしゅ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 十四 おはぐろ 自分たちの子供の時分には既婚の婦人はみんな鉄漿で歯を染めていた。祖母も母も姉も伯母もみんな口をあいて笑うと赤いくちびるの奥に黒耀石を刻んだように漆黒な歯並みが現われた。そうしてまたみんな申し合わせた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 日本橋区内では○本柳橋かかりし薬研堀の溝渠 浅草下谷区内では○浅草新堀○御徒町忍川○天王橋かかりし鳥越川○白鬚橋瓦斯タンクの辺橋場のおもい川○千束町小松橋かかりし溝○吉原遊郭周囲の鉄漿溝○下谷二長町竹町辺の溝○三味線堀。その他なお・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立ってい・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・時代は忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝の埋められなかった昔の吉原を思出させる。 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・池のほとりには蒹葭が生えていたが、水は鉄漿のように黒くなって、蓮は既に根も絶えたのか浮葉もなく巻葉も見えず、この時節には噪しかるべき筈の蛙の声も聞えない。小禽や鴉の声も聞えない。時節ちがいである上に、時間もおそいので無論遊覧の人の姿も見えな・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・大きな口が更に拡がって鉄漿をつけたような穢い歯がむき出して更に中症に罹った人のように頭を少し振りながら笑うのである。然し瞽女の噂をして彼に揶揄おうとするものは彼の年輩の者にはない。随って彼の交際する範囲は三四十代の壮者に限られて居るのである・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・大鷲神社の傍の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二三個の人が現われた。鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙は風に狂いながら流れている。 一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫