・・・雇い婆はこないだうちからの疲れがあるので、今日は宵の内から二階へ上って寝てしまうし、小僧は小僧でこの二三日の睡不足に、店の火鉢の横で大鼾を掻いている、時計の音と長火鉢の鉄瓶の沸るのが耳立って、あたりはしんと真夜中のよう。 新所帯の仏壇と・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・夜は屋の外の物音や鉄瓶の音に聾者のような耳を澄ます。 冬至に近づいてゆく十一月の脆い陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。翳ってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 五月十三日 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢の向うに坐っていて、可怕い顔して自分を迎えた。鉄瓶には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。然し思ったより静で、妹お光の浮いた笑声と、これに伴う男の太い声は二人か三人。母は・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・』 秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中へ冷めた煖陶を突っ込んだ。『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、見たまえ僕のこの原稿の劈頭第一に書いてあるのはこの句である。』 大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・こんなとき、いつも雑談の中心となるのは、鋳物工で、鉄瓶造りをやっていた、鼻のひくい、剛胆な大西だった。大西は、郷里のおふくろと、姉が、家主に追立てを喰っている話をくりかえした。「俺れが満洲へ来とったって、俺れの一家を助けるどころか家賃を・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人吹革もて烈しく炭火を煽り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしく・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てながら疎い歯の黄楊の櫛で邪見に頸足のそそけを掻き憮でている。両袖まくれてさすがに肉付の悪からぬ二の腕まで見ゆ。髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶の湯はいつでも沸いていた。正木大尉は舶来の刻煙草を巻きに来ることもあるが、以前のようにはあまり話し込まない。幹事室の方に籠って、暇さえあれば独りで手習をした。桜井先生は用にだけ来て、音吉が汲んで出す茶を飲んで、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・長火鉢には鉄瓶がかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍に腰をおちつけて、煙草を吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを感傷的にするものらしい。僕も、あの額縁の画についての夫婦の相談や、この長火鉢の位置についての争論を思い・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・お茶道具と鉄瓶とを持って部屋へかえって来たら、もうすでに馬場と太宰が争っていたのである。 太宰は坊主頭のうしろへ両手を組んで、「言葉はどうでもよいのです。いったいやる気なのかね?」「何をです」「雑誌をさ。やるなら一緒にやってもい・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫