・・・鉄砧にあたる鉄槌の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。 蹄鉄屋の先き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・加うるに肺腑を突き皮肉に入るの気鋒極めて鋭どく、一々の言葉に鉄槌のような力があって、触るる処の何物をも粉砕せずには置かなかった。二葉亭に接近してこの鋭どい万鈞の重さのある鉄槌に思想や信仰を粉砕されて、茫乎として行く処を喪ったものは決して一人・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 去年のあのころ、道太の頭脳はまるで鉄槌で打ちのめされたようになっていたので、それを慰めるつもりで、どうせ今日は立てないからと、辰之助は彼をこの家へ引っ張ってきた。それは四日の日で、道太は途中少し廻り道をして、墓参をしてから、ここへやっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なおその足を張て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・二人とも巨きな背嚢をしょって地図を首からかけて鉄槌を持っている。そしてまだまるでの子供だ。(どっちからお出(郡から土性調査をたのまれて盛岡(田畑の地味のお調 老人は眉を寄せてしばらく群青いろに染まった夕ぞらを見た。それか・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・見ると、一人の変に鼻の尖った、洋服を着てわらじをはいた人が、鉄砲でもない槍でもない、おかしな光る長いものを、せなかにしょって、手にはステッキみたいな鉄槌をもって、ぼくらの魚を、ぐちゃぐちゃ掻きまわしているのだ。みんな怒って、何か云おうとして・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・ちょっとお尋ねしますが、この上流若いかばんを持って鉄槌をさげた学生だった。嘉吉は少しむかっぱらをたてたように云った。(仙台嘉吉は馬鹿にしたように云った。青年はすっかり照れてしまった。(まあ地図をお見せなさい。お掛嘉吉は自分も前小林区・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・地質調査をするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩石に鉄槌を加えてはいけないと教えようかな。すぐ眼の前を及川が手拭を首に巻いて黄色の服で急いでいるし、云おうかな。けれどもこれは必要がない。却って混雑するだけだ。とにかくひどく坂に・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。 生徒らはもう大活動、豚の身体を洗った桶・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・そうしてその殻を破るために鉄槌を振るうがいい。その時に初めて偶像再興に対する新しい感覚が目ざめて来るだろう。 しかし予はただ「古きものの復活」を目ざしているのではない。古きものもよみがえらされた時には古い殻をぬいで新しい生命に輝いている・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫