・・・ 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、何か更紗の帯だったかと思う、とにかく花柳小説の挿絵のような、楚々たる女が立っているんだ。するとその女が、――どうしたと思う? 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然と一笑したんだ。おやと思ったが間に合・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ そこへ松が台所から、銀杏返しのほつれた顔を出した。「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」「はい、はい、今行きます。」 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気を・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・洋服を着た菊五郎と銀杏返しの半四郎とが、火入りの月の下で愁嘆場を出している所です。これを見ると一層あの時代が、――あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたような時代が、ありありと眼の前に浮んで来るようじゃありませんか。」 私は・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・と手を打ちながら、彼自身よりも背の高い、銀杏返しの下女を呼び出して来た。それから、――筋は話すにも足りない、一場の俄が始まった。 舞台の悪ふざけが加わる度に、蓆敷の上の看客からは、何度も笑声が立ち昇った。いや、その後の将校たちも、大部分・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった。しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下った膝の上には、大きな風呂敷包みがあった。その又・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・なりはこの間と変りなく、撫子模様のめりんすの帯に紺絣の単衣でしたが、今夜は湯上りだけに血色も美しく、銀杏返しの鬢のあたりも、まだ濡れているのかと思うほど、艶々と櫛目を見せています。それが濡手拭と石鹸の箱とをそっと胸へ抱くようにして、何が怖い・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・小児の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌さんの桃割なんか、お世辞にも誉められました。めの字のかみさんが幸い髪結をしていますから、八丁堀へ世話にな・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・沢山な黒髪をゆたかに銀杏返しにして帯も半襟も昨日とは変わってはなやかだ。どう見てもおとよさんは隣の清さんが嫁には過ぎてる。おとよさんの浮かない顔するのもそれゆえと思えばかわいそうになってくる。「省作、いくら仕事になれないからとて、そのか・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。 僕の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・同じ銀杏返し同じ袷小袖に帯もやや似寄った友禅縮緬、黒の絹張りの傘もそろいの色であった。緋の蹴出しに裾端折って二人が庭に降りた時には、きらつく天気に映って俄かにそこら明るくなった。 久しぶりでおとよも曇りのない笑いを見せながら、なお何とな・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
出典:青空文庫