・・・ 私は、私より二寸位背の高い彼の人が、私の貸した本を腕一杯に抱えて、はじけそうな、銀杏返しを見せて振り向きもしないで、町風に内輪ながら早足に歩いて行く後姿なんかを思いながらフイと番地を聞いて置かなかった、自分の「うかつ」さをもう取り返し・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・栄蔵の昔の姿を思い浮べると一緒に、小ざっぱりとした着物に、元結の弾け弾けした、銀杏返しにして朝化粧を欠かさなかった、若い、望のある自分も見えて来た。 無意識に手をのばして、自分の小さい櫛巻にさわった時、とり返しのつかぬ、昔の若さをしたう・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・世なれた恥しげのうせた様子で銀杏返しにゆるく結って瀧縞御召に衿をかけたのを着て白博多をしめた様子は、その年に見る人はなく、その小さな国の女王としても又幾十人の子分をあごで動かす男達の姐御としても似合わしいものだった。 壁の地獄の絵の中の・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 千世子が気まぐれに時々水彩画を描く木炭紙を棚から下してそれを四つに切ったのに器用な手つきで炬燵につっぷして居る銀杏返しの女の淋しそうな姿を描いて壁に張りつけて眼ばたきを繁くしながらよっかかる様な声で云った。「冬中私の一番沢山す・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 午後ももう日暮方になって京子は重そうな銀杏返しに縞の着物を着て手が目立って大きく見える様な形恰をして来た。 随分待って居たんだけれど昨夜だけはどうしたんだか出掛けた処へ貴方が来たんだもの。 悪うござんしたねえ。 京・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ 髪は大抵、銀杏返しか桃割れだけれ共、たまに見る束髪は、東京の女の、想像以外のものである。 暗い、きたない、ごみごみした家に沢山の大小の肉塊がころがって居るのである。 実際、肉塊が生きて居て地主のために労働して居ると云うばかりで・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 銀杏返しに結った平顔の、二十五六の女が変な顔をして出て来た。疑わしげに、女は藍子を上下に見ながら、「どんな御用なんでしょう」と云った。「尾世川さんのことで上ったんですが、おいそがしくなかったらちょっとお話したいと思って……・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・ 暫くすると、お金の右隣に寝ている女中が、むっくり銀杏返しの頭を擡げて、お金と目を見合わせた。お松と云って、痩せた、色の浅黒い、気丈な女で、年は十九だと云っているが、その頃二十五になっていたお金が、自分より精々二つ位しか若くはないと思っ・・・ 森鴎外 「心中」
・・・中肉中背で、可哀らしい円顔をしている。銀杏返しに結って、体中で外にない赤い色をしている六分珠の金釵を挿した、たっぷりある髪の、鬢のおくれ毛が、俯向いている片頬に掛かっている。好い女ではあるが、どこと云って鋭い、際立った線もなく、凄いような処・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫