・・・夢だ。錯覚なんだ!―― こう思って彼は自分自身を納得させて、再び眠りに入ろうと努めた。 深谷はすぐに帰ってきて、電燈を消した。そしてベッドに入ると、間もなくかすかな鼾さえ立て始めた。 安岡は自分の頭が変になっていることを感じて、・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・しかしそれは錯覚であったとみえて、誰も室内へ這入って来てはいない。オオビュルナンは起ち上がって、戸の傍へ歩み寄った。薄絹が少し動いたようではあるが、何も見えない。多分風であっただろう。 オオビュルナンは口の内でつぶやいた。「これでは余り・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・終には、照子に対するどこやら錯覚的な愉快ささえ、ほのぼのと湧き出して来た。愛は、自分だけにしか判らない複雑な微笑を瞳一杯に漂し、話し倦むことを知らない照子の饒舌に耳を傾けた。 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・ 今日から配給のお米は、とうもろこし入りになり、まるでいり卵をかけてかき交ぜた御飯のようで、玉子をたべることは少いから、玉子好きの私達は錯覚をおこして、おいしいものをみたような気が一寸します。そして味も案外苦にならず、人間の食べるものの・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 同時に、一部には、何かの錯覚めいた性急さが湧いた。国内の反民主主義的な圧力、抑圧に抵抗しずにいられない客観的な必然がより一般的に生じたとともに、日本の民主勢力の攻勢が何かのたかまりをもてば、どうやら中国の勝利につれて何かのゴールに、達・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・したがって、社会の心理に及ぼす効果をしらべると、戦争なんて、いやですわねえ、とあっちできこえこちらで囁かれる声が、却ってまるで戦争のさけがたさとそれがもう予定されて動かせない事実であるかのような錯覚に導いていた傾きさえあったといえる。一人一・・・ 宮本百合子 「今年のことば」
・・・生活及文学に対する私の態度を盲目的な偏執又は非芸術的な機械性と云われている点や錯覚されている「社会善的潔癖さ」などという伊藤氏の理解について、第三者には自ずから明かである。その見方の誤りやそういう人間の見方そのものにあらわれている筆者の感情・・・ 宮本百合子 「数言の補足」
・・・ 彼は、総ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象だと考えた。 ――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。 ――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。 彼はあまりに苦しみ過・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・そういう仕方で目の錯覚、物忌み、嗜虐性、喫煙欲というような事柄へも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れていながら、それを全然感得しないでいたのである・・・ 和辻哲郎 「寺田寅彦」
・・・私が Sollen を地に投げたと思ったのは錯覚に過ぎなかった。Sollen は私の内にあった。Sollen を投げ捨てるためには、私は私自身を投げ捨てなければならないのであった。私は自分の内に Aesthet のいるのを拒むことはできない・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫