・・・動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、な・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲しめのためにひどい小言を・・・ 有島武郎 「親子」
・・・これから、長旅に出かける前のあいさつであります。 つぎの瞬間に、彼らは、空へ舞い上がりました。そして、池の上を、なつかしそうに一周したかと思うと、ここを見捨てて、陣形を造って、たがいに鳴き交わしながら、かなたへと消えていってしまったので・・・ 小川未明 「がん」
・・・はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で煩った為に限りある路銀を費い尽して了った。道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫