・・・ 安子が毎朝教室へ行って机を開けると何通もの艶文がはいっていた。が、安子は健坊という一人を「あたいの好い人」にしていた。健坊は安子の家とは道一つへだてた向側の雑貨屋の伜で、体が大きく腕力が強く、近所の餓鬼大将であった。 ところが四年・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 惣治は今に始まらぬ兄の言うことのばかばかしさに腹が立つよりも、いつになったらその創作というものができて収入の道が開けるのか、まるで雲を攫むようなことを言ってすましていられる兄の性格が、羨ましくもあり憎々しくもあるような気がされた。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出すからであった。生島はその四十を過ぎた寡婦である「小母さん」となんの愛情もない身体の関係を続けていた。子もなく夫にも死に別れたその女にはどこ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・しかし確に箪笥を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変はない。縁端から、台所に出て真闇の中をそっと覗くと、臭気のある冷たい空気が気味悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高く・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 其処で真蔵はお清の居る部屋の障子を開けると、内ではお清がせっせと針仕事をしている。「大変勉強だね」「礼ちゃんの被布ですよ、良い柄でしょう」 真蔵はそれには応えず、其処辺を見廻わしていたが、「も少し日射の好い部屋で縫った・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・――一度開けると薪三本分損するの。」 彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪が出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も、弟も食うことに困っているのだ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・清しそうなアカシヤの下には石に腰掛けて本を開ける生徒もある。濃い桜の葉の蔭には土俵が出来て、そこで無邪気な相撲の声が起る。この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側は、高瀬が行っ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・と、小母さんは閉じていた目を開ける。「あの、いったい藤さんはどうした人なんです?」と聞くと、「なぜ?」と言う。 聞いてみると、この家が江田島の官舎にいた時に、藤さんの家と隣り合せだったのだそうである。まだ章坊も貰わない、ずっと先・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あまの岩戸を開けるような恰好して、うむと力こめたら、硝子戸はがらがらがら大きな音たてて一間以上も滑走し、男爵は力あまって醜く泳いだ。あやうく踏みとどまり、冷汗三斗の思いでこそこそ店内に逃げ込んだ。ひどいほこりであった。六、七脚の椅子も、三つ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ アインシュタインの考えでは、若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けるという事が最も大切な事であるから、従って実科教育を十分に与えるために、古典的な語学のみならず「遠慮なく云えば」語学の教育などは幾分犠牲にしても惜しくないという考えらし・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫