・・・お酒は、日本酒なら一合、ビイルなら一本やっとくらいのところで、煙草は吸いますが、それも配給の煙草で間に合う程度で、結婚してもう十年ちかくなるのに、その間いちども私をぶったり、また口汚くののしったりなさった事はありませんでした。たったいちど、・・・ 太宰治 「おさん」
・・・メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・六時の上り一番の汽車に間に合うようにと、暗いうちに起きて駅へ行く事もあった。あれはもう、朝起きてから夜眠るまで、お前たちの事ばかり考えて暮していたのだ。お前ほど仕合せな奴は無い。東京で罹災したと言って、何の前触れも無く、にやにや笑ってこの家・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・これの運動の解明は古典力学だけで間に合う。しかしコリントゲームの方には公算的統計的の要素が入り込む。前者では因果の連鎖が一筋の糸でつづいているが、後者では因果の中間に蓋然の霧がかかっている。それで、前者では練習さえ積めばかなりの程度までは思・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・それで、もしも、物や人の価値をきめる属性の数がただ一つならば、このような線の尺度が一つあれば間に合う。しかし、空間の中に静止する一点の位置を決定するだけでも三つの数字が必要である。百個の点の集団なら三百の数字が入用になる。物理的体系の「自由・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・話の様子で察してみると、誰かこの老婆の身近い人が、川崎辺の病院にでもはいっていて、それが危篤にでも迫っているらしい。間に合うかどうかを気にしているのを、男がいろいろに力をつけて慰めてでもいるらしかった。こういう老婆を見ると、いかにも弱々しく・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなこと・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・「そうじゃ六日目の晩には間に合うだろう。城の東の船付場へ廻して、あの金色の髪の主を乗せよう。不断は帆柱の先に白い小旗を揚げるが、女が乗ったら赤に易えさせよう。軍さは七日目の午過からじゃ、城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら天下太平……・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・法文の教室は下だけで、間に合うていたのである。当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっ・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・くて可哀相で、じっとしていられないようだし、素手でまた南へやるのはとてもしのびないから、大さわぎをして色んな人に聞き合せて南から決死隊で生還したという人の準備を聞くことが出来て、今日はどうぞこの包みが間に合うように、と願いながら緑茶を小さい・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫