・・・「気をつけろ、間抜けめ」と言うのが捨てぜりふで、そのまま行こうとすると、親父は承知しない。「この野郎!」と言いさま往来にはい上がって、今しもかじ棒を上げかけている車夫に土を投げつけた。そして、「土方だって人間だぞ、ばかにしやアが・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・鏡を出してこの招牌と較べてみい。間抜けめ」 こういったようなことから、後で女房が亭主に話すと、亭主はこの辺では珍らしい捌けた男なんだそうで、それは今ごろ始った話じゃないんだ。己の家の饅頭がなぜこんなに名高いのだと思う、などとちゃらかすの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・こんな場合は、目前の、間抜けた弟の一挙手一投足、ことごとくが気にいらなくなってしまうのである。私が両膝をそろえて、きちんと坐り、火鉢から余程はなれて震えていると、「なんだ。おまえは、大臣の前にでも坐っているつもりなのか。」と言って、機嫌・・・ 太宰治 「一燈」
・・・すすめられるままに、ただ阿呆のように、しっかりビイルを飲んで、そうして長押の写真を見て、無礼極まる質問を発して、そうして意気揚々と引上げて来た私の日本一の間抜けた姿を思い、頬が赤くなり、耳が赤くなり、胃腑まで赤くなるような気持であった。・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ボンにプレス、頬には一筋、微笑の皺、夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の、折目正しき軽装のひと、これが、この世の不幸の者、今宵死ぬる命か、しかも、かれ、友を訪れて語るは、この生のよろこび、青春の歌、間抜けの友は調子に乗り、レコオド持ち出し・・・ 太宰治 「喝采」
・・・あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。 太宰治 「川端康成へ」
・・・少年は村のひとたちの噂話を間抜けていると思うのだ。なぜこのひとたちは、もっとだいじなことがらを話し合わないのであろう。くろんぼは、雌だそうではないか。 チャリネの音楽隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで・・・ 太宰治 「逆行」
・・・かたちの間抜けにしんから閉口して居ると、私の中のちゃちな作家までが顔を出して、「人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなし、まして、眉間の皺ではない。最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑んでいるものである。」虫の息。三十分ご・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・不忍の池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池の蓮も、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸をとどめ、ぞろぞろ通る夕涼みの人も間抜け顔して、疲労困憊の色が深くて、世界の終りを思わせた。 上野の駅まで来てしまった。無数の黒色の旅客が・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・電車に乗ると大抵満員――それが日本特有の満員で、意地悪く押されもまれて、その上に足を踏みつけられ、おまけに踏んだ人から「間抜けめ、気を付けろい」などと罵られて黙っていなければならなかった。このような――当り前ならば多分何でもないと思われるべ・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
出典:青空文庫