・・・これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・そんな事は一々聞かないでもいいから好加減にしてくれと云うと、どう致しまして、奥様の入らっしゃらない御家で、御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違いがあってはなりません、てって頑として主人の云う事を聞かないんだからね」「それじゃあ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を白くして浮び上ったと思うことは、それは間違いであった。どこにでも避暑地と云うものがあった。日本には軽井沢があり、印度にはダージーリンがあり、アメリカには、ロッキーがあった。「人・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・遊芸和文三十一文字などの勉強を以て女子唯一の教育と思うは大なる間違いなる可し。余曾て言えることあり。男子の心は元禄武士の如くして其芸能は小吏の如くなる可しと。今この語法に従い女子に向て所望すれば、起居挙動の高尚優美にして多芸なるは御殿女中の・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・もちろん何かの張合で誰かが溺れそうになったとき間違いなくそれを救えるというくらいのものは一人もありませんでした。だんだん談してみると、この人はずいぶんよく私たちを考えていてくれたのです。救助区域はずうっと下流の筏のところなのですが、私たちが・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ 恋愛の真実な経験は間違いなく生活内容を増大させます。けれども、私には、恋愛生活ばかり切りはなして、それ自身全般的なものとは考えられません。恋愛過程を含む或る人の生活とは云えても。人間は生れるときから死ぬまで恋愛ばかりに没頭しているので・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・もし少しでも申した事に間違いがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責め道具のある方角を指さした。 いちはさされた方角を一目見て、少・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利の物なので思わずも雀躍した,「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、「・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・しかしそれは間違いではないまでもあまりにその解釈力が狭小であったことは認めねばならぬ。ある一つの有力な賓辞に対する狭小な認識はそれが批評となって現わされたとき、勿論芸術作品の成長範囲をも狭小ならしめることは、一例を取るまでもなく明かなことで・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ただ言葉の間違いや事件の行き違いのほかに根のない誤解ならば、解くこともまたやすい。 しかし私は、人格の相違が誤解を必然ならしめる場合を少なからず経験する。それを解き得るものはただ大きい力と愛とである。私はそのためにはいまだあまりに弱い。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫