・・・とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・話の中、西廂記と琵琶記とを間違え居られし為、先生も時には間違わるる事あるを知り、反って親しみを増せし事あり。部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・彼は無風帯を横ぎる帆船のように、動詞のテンスを見落したり関係代名詞を間違えたり、行き悩み行き悩み進んで行った。 そのうちにふと気がついて見ると、彼の下検べをして来たところはもうたった四五行しかなかった。そこを一つ通り越せば、海上用語の暗・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」「そうかい、此家は広いから、また迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もう刎ねっちまったんじゃありませんか。」 さあ……「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、ま・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ けれども、その男を、年配、風采、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家だの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切にした女を油紙に包んで詰込ん・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・露に光る木の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤な、まん円な、大きな太陽様の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足で庭へ駈下りまし・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 花田八段はその対局中しばしば対局場を間違えたということである。天龍寺の玄関を上って左へ折れすぐまた右へ折れたところに対局場にあてられた大書院があったのだが、花田八段は背中を猫背にまるめて自分の足許を見つめながら、ずんずんと廊下の端まで・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ただ、父親が教えてくれた通り弾かねば、いつまでも稽古がくりかえされたり、小言をいわれたりするのが怖さに、出来るだけ間違えないようにと鼻の上に汗をかいているだけに過ぎなかった。――ヴァイオリンを弾くことが三度の飯より好きなわけでは、さらになか・・・ 織田作之助 「道なき道」
出典:青空文庫