・・・覚えておいたはずの場所にそれが見つからないので、まさか店を間違えたのでもなかろうがと思って不安になってその小僧にきいてみた。「お忘れ物ですか。そんなものはありませんでしたよ」言いながら小僧は他所のをやっつけに行こう行こうとしてうわの空に・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物で右左を間違えて言う仲間の一人であったが、年を取るとよけいに口が悪くなった。『彼奴は遠からず死ぬわい』など人の身の上に不吉きわまる予言を試みて平気でいる、それがまた奇妙にあたる。むずかしく・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・』『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から母親があくび声で、『お菊もう寝るから外をお閉め。』『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』と嘘・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 既成の諸宗の誤謬は仏陀の方便の権教を、真実教と間違えたところにある。仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許さ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出で、そのまま汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴染みのおでんやにとびこみました。其処に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・天王山を持ち出したのだろう。関ヶ原だってよさそうなものだ。天王山を間違えたのかどうだか、天目山などと言う将軍も出て来た。天目山なら話にならない。実にそれは不可解な譬えであった。或る参謀将校は、この度のわが作戦は、敵の意表の外に出ず、と語った・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・肺炎は必ずなおると定ったわけでもなし、一つ間違えば死ぬだろうに、あの時は不思議に死と云う事は少しも考えなかったようである。自分は夭死するのだなと思った事はあったが、死が恐ろしくてそう思ったのではない。夭死と云う事が、何だか一種の美しい事のよ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そして下車する時にうっかり間違えて鋏を入れないのを二、三枚交ぜて切って渡したらしい。それで手許にはそれだけ鋏の入ったのが残っていた訳である。そうとも知らず次に乗車した時にうっかり切符を渡すとこれは鋏が入っていますよと注意されてはなはだきまり・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・していたら、居合わせた土地の老人が、それは一度倒れたのを人夫が引起して樹てるとき間違えて後向きにたてたのだと教えてくれた。うっかり「地震による碑石の廻転について」といったような論文の材料にでもして故事付けの数式をこね廻しでもすると、あとでと・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
出典:青空文庫