・・・「うん所天は陸軍中尉さ。結婚してまだ一年にならんのさ。僕は通夜にも行き葬式の供にも立ったが――その夫人の御母さんが泣いてね――」「泣くだろう、誰だって泣かあ」「ちょうど葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だったが、御経が済んでい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試しがない。必竟われらは一種の潮流の中に生息して・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・ 陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。軍律を厳守することでも、新兵を苛めることでも、田舎に帰って威張るこ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・で、私の職業の変遷を述べれば、官報局の翻訳係、陸軍大学の語学教師、海軍省の編輯書記、外国語学校の露語教師なぞという順序だが、今云った国際問題等に興味を有つに至って浦塩から満洲に入り、更に蒙古に入ろうとして、暫時警務学堂に奉職していた事なんぞ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・そして陸軍大将だぞ。」 楢夫は怒ってしまいました。「何だい。六十になっても、そんなにちいさいなら、もうさきの見込が無いやい。腰掛けのまま下へ落すぞ。」 小猿が又笑ったようでした。どうも、大変、これが気にかかりました。 けれど・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。 親方も、むかっ腹を立・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・前線へもゆきたがる作家を、陸軍の従軍報道班の人々は忍耐をもって、適当に案内し、見聞させ「戦争がその姿をあらわして来た」と亢奮をも味わせている。軍人は戦い、そして勝たなければならないという明瞭な目的によって貫かれている。居留民はそこにおける地・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・火野葦平が、文芸春秋に書いたビルマの戦線記事の中には、アメリカの空軍を報道員らしく揶揄しながら、日本の陸軍が何十年か前の平面的戦術を継承して兵站線の尾を蜒々と地上にひっぱり、しかもそれに加えて傷病兵の一群をまもり、さらに惨苦の行動を行ってい・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・それは陸軍に出てから病気引籠をしたことがないという位だから、めったにいらない。 人から来た手紙で、返事をしなくてはならないのは、図嚢の中に入れているのだから、それを出して片端から返事を書くのである。東京に、中学に這入っている息子を母に附・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・そこを坂下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積んだ車を曳いて登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、隊長の下士が敬礼ッと号令した。ぴたッと停った一隊に答礼する栖方の挙手は、隙なくしっかり板についたものだった。軍隊内の栖方の姿を梶・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫