一 僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好い。彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室の・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 眼がさめると、階下に大野さんが来ている。起きて顔を洗って、大野さんの所へ行って、骨相学の話を少しした。骨相学の起源は動物学の起源と関係があると云うような事を聞いている中にアリストテレスがどうとかと云うむずかしい話になったから、話の方は・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・ これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。 階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・身悶えをすれば吐きそうだから、引返して階下へ抜けるのさえむずかしい。 突俯して、(ただ仰向であった―― で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・夫人 ええ、じき(お傍にと言う意味籠……ですが、階下の奥に。あの……画家 それはどうも――失礼します。(また行夫人 先生、あのここへいらっしゃりがけに、もしか、井菊の印半纏を着た男衆にお逢いなさりはしませんでしたか。画家 あ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 浅草は今では活動写真館が軒を並べてイルミネーションを輝かし、地震で全滅しても忽ち復興し、十二階が崩壊しても階下に巣喰った白首は依然隠顕出没して災後の新らしい都会の最も低級な享楽を提供している。が、地震では真先きに亡ぼされたが、維新の破・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ そのうちに、階下の八角時計が九時を打った。それから三十分も経ったと思うころ、外から誰やら帰ってきた気勢で、「もう商売してきたの、今夜は早いじゃないか。」と上さんの声がする。 すると、何やらそれに答えながら、猿階子を元気よく上っ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・そこはトキワ会が近くて絵を借りに行くのが便利だったのと、階下がうどん屋だから、自炊の世話がいらなかったからです。ところが、そのうどん屋では酒も出すので、寒い夜道を疲れて帰った時などつい飲みたくなる。もともといける口だし、借も利くので、つい飲・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・彼女は私より二つ下の二十七歳、路地長屋の爪楊枝の職人の二階を借りた六畳一間ぐらしの貧乏な育ち方をして来たが、十三の歳母親が死んだ晩、通夜にやって来た親戚の者や階下の爪楊枝の職人や長屋の男たちが、その六畳の部屋に集って、嬉しい時も悲しい時もこ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・自分も鎌倉から出てきて一年余りの下宿生活の間に、三四度も来たことのある階下の広い部屋だったが、その晩は思いがけなくクリスマスの夜だった。入口の隅のクリスマスの樹――金銀の眩い装飾、明るい電灯――その下の十いくつかのテーブルを囲んだオールバッ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫