・・・ 喬は心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは「帰るのがお厭どしたら、朝まで寝とおいやしても、うちはかましまへん」と言うかも知れない。それより「誰ぞをお呼びやおへんのどしたら、帰っとくれやす」と言われる方・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・その階下が浴場になっていた。 浴場は溪ぎわから石とセメントで築きあげられた部厚な壁を溪に向かって回らされていた。それは豪雨のために氾濫する虞れのある溪の水を防ぐためで、溪ぎわへ出る一つの出口がある切りで、その浴場に地下牢のような感じを与・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ この階下の大時計六時を湿やかに打ち、泥を噛む轍の音重々しく聞こえつ、車来たりぬ、起つともなく起ち、外套を肩に掛けて階下に下り、物をも言わで車上に身を投げたり。運び行かるる先は五番町なる青年倶楽部なり。 倶楽部の人々は二郎が南洋航行・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・じいさんは階下の自分等にあてがわれた四畳半で手持無沙汰に座っていた。「ほいたって、ほかにましな着物いうて有りゃせんがの、……うらのを笑いよるんじゃせに、お前のをじゃって笑いよるわいの。」「うらのはそれでも買うたんじゃぜ。」じいさんは・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・日あたりも悪く、風通しも悪く、午後の四時というと階下にある冬の障子はもう薄暗くなって、夏はまた二階に照りつける西日も耐えがたいこんな谷の中の借家にくすぶっているよりか、自分の好きな家でも建て、静かに病後の身を養いたいと考えるような、そういう・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・などそれは下劣な事ばかり、大まじめでいって罵り、階下で赤子の泣き声がしたら耳ざとくそれを聞きとがめて、「うるさい餓鬼だ、興がさめる。おれは神経質なんだ。馬鹿にするな。あれはお前の子か。これは妙だ。ケツネの子でも人間の子みたいな泣き方をすると・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・机の上の電話で、階下の帳場へ時間を聞いた。さむらいには時計が無いのである。六時四十分。いまから寝ては、宿の者に軽蔑されるような気がした。さむらいは立ち上り、どてらの上に紺絣の羽織をひっかけ、鞄から財布を取り出し、ちょっとその内容を調べてから・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・自分は病気療養のためしばらく滞在する積りだから、階下の七番と札のついた小さい室を借りていた。ちょっとした庭を控えて、庭と桑畑との境の船板塀には、宿の三毛が来てよく昼眠をする。風が吹けば塀外の柳が靡く。二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ヒロインが病院の病室を一つ一つ見回って愛人を捜す場面で、階下から聞こえて来る土人女の廃頽的な民謡も、この場の陰惨でしかもどこかつやけのある雰囲気を濃厚にする。それから次の酒場で始終響いているピアノの東洋的なノクターンふうの曲が、巧妙にヒロイ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫