・・・ この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・裏庭の外には小路の向うに、木の芽の煙った雑木林があった。良平はそちらへ駈けて行こうとした。すると金三は「こっちだよう」と一生懸命に喚きながら、畑のある右手へ走って行った。良平は一足踏み出したなり、大仰にぐるりと頭を廻すと、前こごみにばたばた・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・ところがまた、知ってる通り、あの一町場が、一方谷、一方覆被さった雑木林で、妙に真昼間も薄暗い、可厭な処じゃないか。」「名代な魔所でござります。」「何か知らんが。」 と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、「一ッきり、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・庭の正面がすぐに切立の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿り蜿り自然の大巌を削った径が通じて、高く梢を上った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟のように覗かれる。そのあたり・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・坂を下りるにつれて星が雑木林の蔭へ隠れてゆく。 道で、彼はやはり帰りの姑に偶然追いついた。声をかける前に、少時行一は姑を客観しながら歩いた。家人を往来で眺める珍しい心で。「なんてしょんぼりしているんだろう」 肩の表情は痛いたしか・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 自分は中学の時使った粗末な検索表と首っ引で、その時分家の近くの原っぱや雑木林へ卯の花を捜しに行っていた。白い花の傍へ行っては検索表と照し合せて見る。箱根うつぎ、梅花うつぎ――似たようなものはあってもなかなか本物には打つからなかった。そ・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・善は急げ、というユウモラスな言葉が胸に浮んで、それから、だしぬけに二、三の肉親の身の上が思い出され、私は道のつづきのように路傍の雑木林へはいっていった。ゆるい勾配の、小高い岡になっていて、風は、いまだにおさまらず、さっさつと雑木の枝を鳴らし・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ おみおつけの温まるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、よ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 帰路は夕日を背負って走るので武蔵野特有の雑木林の聚落がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒が銀燭のごとく灯ってこの天然の画廊を点綴していた。 東京へ近よるに従って東京の匂いがだんだんに濃厚になるのがはっきり分か・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫