・・・「天雲の上をかけるも谷水をわたるも鶴のつとめなりけり」――こう自ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上は一藩の老職から、下は露命も繋ぎ難い乞食非人にまで及んでいた。 蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病と云う見立てを下した。しかし・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
一 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢の頃おい、伊弉諾の尊は・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・――唯今の鯖江、鯖波、今庄の駅が、例の音に聞えた、中の河内、木の芽峠、湯の尾峠を、前後左右に、高く深く貫くのでありまして、汽車は雲の上を馳ります。 間の宿で、世事の用はいささかもなかったのでありますが、可懐の余り、途中で武生へ立寄りまし・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・また、吉弥の坐っているのがふらふら動くように見えるので、あたかも遠いところの雲の上に、普賢菩薩が住しているようで、その酔いの出たために、頬の白粉の下から、ほんのり赤い色がさす様子など、いかにも美しくッて、可愛らしくッて、僕の十四、五年以前の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ まったく、まりは、いまは雲の上にいて安全でありましたけれど、毎日、毎日、仕事もなく、運動もせず、単調に倦いていました。そして、だんだん地の上が恋しくなりはじめたのでありました。 まりは、地上に帰ろうかと考えました。そのとき、風は、・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
・・・ すかさず訊くと、戸沢図書虎先生は雲の上でそわそわとされているらしく、「忍術とは、ええと、忍術とは、ええ、忍、忍、忍……と。うむ、よき洒落が出て来ぬわい。えい、面倒じゃ。ゴロ合わせはこれまで。雷が待っておる。佐助よ、さらばじゃ」・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・ そういうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分らなかった。 われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやりに来させられたのだ。――それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。 彼等の思っていることは、死にたくない。どうにか・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・浜口雄幸がどうしたとか、若槻が何だとか、田中は陸軍大将で、おおかた元帥になろうとしていたところをやめて政治家になったとか、自分たちにとっては、実に、富士山よりも高く雲の上の上にそびえていて、浜口がどうしようが、こうしようが、三文の損得にもな・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。 夕方藤・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市まで続・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
出典:青空文庫