・・・しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を鮮かに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。「やっぱりお肚が・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。 謂う心は、両足を地面に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」 お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。「さ、お待遠様。」「難有い。」「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいか・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・お土産は電車だ、と云って出たんですのに。―― お雪さんは、歌磨の絵の海女のような姿で、鮑――いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた雨落の下へ、積み積みしていたんですね。 めそめそ泣くような質ではないので、石も、日も、少しずつ積・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・妻は、また、これを全く知らないでいたのは迂濶だと言われるのが嫌さに、まずもって僕の父に内通し、その上、血眼になってかけずりまわっていたかして、電車道を歩いていた時、子を抱いたまま、すんでのことで引き倒されかけた。 その上の男の子が、どこ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 呉服橋で電車を降りて店の近くへ来ると、ポンプの水が幾筋も流れてる中に、ホースが蛇のように蜒くっていた。其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチ・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・町の方には電車の音がしたり、また汽車の笛の音などもしているのでありました。 さよ子は、よい音色の起こるところへ、いってみたいと思いました。けれども、まだ年もゆかないのに、そんな遠いところまで、しかも晩方から出かけていくのが恐ろしくて、つ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・の前で立ち停っている浜子の動きだすのを待っていると、浜子はやがてまた歩きだしたので、いそいそとその傍について堺筋の電車道を越えたとたん、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、私はぼうっとなってしまった。 弁天座、朝日座、角・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫