・・・それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、鮮な瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、「あれを二束下さいな。」と云・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 見れば青物を市へ積出した荷車が絶えては続き、街道を在所の方へ曳いて帰る。午後三時を過ぎて秋の日は暮れるに間もあるまいに、停車場の道には向わないで、かえって十二社の方へ靴の尖を廻らして、衝と杖を突出した。 しかもこの人は牛込南町辺に・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・その主人の親戚で亀やんという老人が、青物の行商に毎日北田辺から出てくるが、もうだいぶ身体が弱っているので、車の先引きをしてくれる若い者を探してくれと頼まれていたらしい。帰って秋山さん――例の男は秋山といいました――に相談すると、賛成してくれ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
神田の司町は震災前は新銀町といった。 新銀町は大工、屋根職、左官、畳職など職人が多く、掘割の荷揚場のほかにすぐ鼻の先に青物市場があり、同じ下町でも日本橋や浅草と一風違い、いかにも神田らしい土地であった。 喧嘩早く、・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 母親の話によるとそれは青物を売りに来る女があって、その女といろいろ話をしているうちにその肺病の特効薬の話をその女がはじめたというのだった。その女には肺病の弟があってそれが死んでしまった。そしてそれを村の焼場で焼いたとき、寺の和尚さんが・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。――実際あ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・「お芳さんの旦那ってどんな人なの」「青物の問屋。なかなか堅いんですの。旧は夜店で果物なんか売っていたんですけれど、今じゃどうして問屋さんのぱりぱりです。倶楽部へも入って、骨董なんかもぽつぽつ買っていますわ。それで芳ちゃんが落籍される・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・気候が青物には申し分ないが、小麦には少し湿っているとの事。 この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中をもぐもぐさしたまま、手にナフキンを持ったままで。・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・彼はきょろきょろしながら新鮮な空気を吸いに泥溝の岸に拡っている露店の青物市場へ行くのである。そこでは時ならぬ菜園がアセチリンの光りを吸いながら、青々と街底の道路の上で開いていた。水を打たれた青菜の列が畑のように連なって、青い微風の源のように・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫