・・・ 自分はいつしか小山を忘れ、読む書にもあまり身が入らず、ただ林の静けさに身をまかしていると、何だか三、四年前まで、自分の胸に響いたわが心の調べに再び触れたような心持ちがする。『兄さん!』と小山は突然呼んだ、『兄さん、人の一生を四季に・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・その静けさ。童は再び夢心地せり。童はいつしか雲のことを忘れはてたり。この後、童も憂き事しげき世の人となりつ、さまざまのこと彼を悩ましける。そのおりおり憶い起こして涙催すはかの丘の白雲、かの秋の日の丘なりき。 二人の旅客・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・ 星は冴えに冴え、風は死し、秋の夜の静けさ、虫は鳴きしきっている。不思議なるは自分が、この時かかる目的の為に外面に出ながら、外面に出て二歩三歩あるいて暫時佇立んだ時この寥々として静粛かつ荘厳なる秋の夜の光景が身の毛もよだつまでに眼に沁こ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・路の半ばに時雨しめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りし後は左右の林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直なる路の急に左に折るるところに立ち木やや疎らなる林あり。青年はかねてよくこの林の奥深く分け入・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲は元の静けさにかえりました。 そこで二人は第二の門を通ってまたかきがねをかけました。 その先には作物を作らずに休ませておく畑があって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・その時のほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、いきがみさま、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気がする。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんな・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・ 園の静けさは前に変わらぬ。日光の目に見えぬ力で地上のすべての活動をそっとおさえつけてあるように見える。気分はすっかりよくなったと言うから、もうそろそろ帰ろうかと言うと、少し驚いたように余の顔を見つめていたが、せっかく来たから、もう少し・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・引過のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくし・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ ――静けさ明るさに溶けるように、「う? う?」 軟かく鼻にかかった百代の声がした。十六の彼女は従兄の忠一の後に大きな元禄紬の片腕を廻し背中に頻りに何か書いた。「ね? だから」 何々と書くのだろう。忠一はしかつめらしく結・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 絶え間なくスルスル……スルスル……と落ちて来る雨は此の木の上にも他のどれもと同じ様に降り注いで居るのに、楓のどの部分も目に見えぬ微動さえ起さないで、恐ろしい静けさで立って居る。 何と云う落付いた事なのか。 此のしなやかなたよた・・・ 宮本百合子 「雨が降って居る」
出典:青空文庫