・・・僕は床の上に腹這いになり、妙な興奮を鎮めるために「敷島」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を醒ましているのはどうも無気味でならなかった。 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・しかしこの春の夜の物音は何れも心を押し鎮めるような好い物音であった。何とは知らず周囲の草の中で、がさがさ音がして犬の沾れて居る口の端に這い寄るものがある。木の上では睡った鳥の重りで枯枝の落ちる音がする。近い街道では車が軋る。中には重荷を積ん・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ずっと寄れ、さあこの身体につかまってその動悸を鎮めるが可い。放すな。」と爽かにいった言につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。「婆さん、明を。」 飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯の影に、と見れば、予・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・何しろここでは母の心を静めるのが第一とは思ったけれど、慰めようがない。僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの気力はない。そうこうしている内にようやく母も少し落着いてきて、また話し出した。「政夫や、聞いて・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・しまいにはそれを鎮める姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。信子が勝子を抱いている。勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。「そとへ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・それにもう一つは心臓がひどく弱ってしまって、一度咳をしてそれを乱してしまうと、それを再び鎮めるまでに非常に苦しい目を見なければならない。つまり咳をしなくなったというのは、身体が衰弱してはじめてのときのような元気がなくなってしまったからで、そ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮める為に、朝夕ガアゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不眠の苦痛には極度にもろかった。私は毎夜、医者にたのんだ。ここの医者は、私のからだを見放し・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 一日中寝巻姿でゾロリとしている技師ニェムツェウィッチの女房が、騒動をききつけてドアから鼻をつっこみ、それを鎮めるどころか、折から書類入鞄を抱えてとび込んで来たドミトリーを見るや否や、キーキー声で喰ってかかった。「タワーリシチ・グレ・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・九 怒りをもって怒りを鎮める事はできない。主我心をもって主我心を砕く事もできない。それをなし得るのはただ愛のみである。 怒りは怒りをあおり、主我心は主我心を高める。もし他人の怒りと主我心を呪うならば、まず自己の内の怒りと・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫