・・・暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・暗示の種は通例日常われわれの面前にころがっている。しかし、それを見つけるにはやはり見つけるだけの目が必要であることはいうまでもない。 日本には西洋とちがった環境があり、日本人には日本人の特有な目があるのであるからもし日本の映画製作者がほ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・案を拍って快哉を叫ぶというのは、まさに求めるものを、その求める瞬間に面前に拉しきたるからこそである。 こういう現象の可能なのは、畢竟は人間の心の動き、あるいは言葉の運びに、一定普遍の方則、あるいは論理が存在するからである。作者は必ずしも・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・の目には顕著な人物の名前が「世間」というものの人名簿には今日という今日までどこにもかいてなかった。それがノーベル賞の光環を頂いて突然天から降って来た天使のように今「世間」の面前に立っている。十年前に出現した新星の光が今ようやく地球に届いたよ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ そうかと思うとまたある日本食堂で最近代的な青年二人と少女二人の一行が鯛茶を注文していたが、それが面前に搬ばれたときにこの四人の新人は、胡麻味噌に浸された鯛の繊肉を普通のおかずのようにして飯とは別々に食ってそうして最後に茶を別々に飲んで・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そうして思いもかけぬ間道を先くぐりして突然前哨の面前に顔を突き出して笑っているようなところがある。 もっとも、ラマンのまねをするつもりで、同じように古くさい問題ばかりこつこつと研究をしていれば、ついにはラマンと同じように新しい発見に到達・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・必然の結果として食物を食卓に並べるとき露出された腕がわれわれの面前にさし出される。日本で女の子の腕を研究するのにこれほど適当な機会はまたとないであろうと思われる。 美しい腕をもった子は存外少ないようである。応募者の試験委員たちの採点表中・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・それはとにかくこの善良愛すべき社長殿は奸智にたけた弁護士のペテンにかけられて登場し、そうして気の毒千万にも傍聴席の妻君の面前で、曝露されぬ約束の秘事を曝露され、それを聞いてたけり立ち悶絶して場外にかつぎ出されるクサンチッペ英太郎君のあとを追・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・なるほど自分の面前の近距離で吹き立てられるとかなり勇ましく、やかましいくらい勇ましい。しかし木枯らし吹く夕暮れなどに遠くから風に送られて来るラッパの声は妙に哀愁をおびて聞こえるものである。 勇ましいということの裏には本来いつでも哀れなさ・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・僕は年五十に垂んとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに憩い僕の面前に紅茶を持運んで来た女給仕人を見ても、二十年前ライオン開店の当時に於けるが如く嫌悪の情を催さなかった。是が理由の第三である。 僕は啻にカッフェーの給仕女のみならず、・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫