・・・一応云うことの順序か何か考えているらしい面持ちである。治修は顔色を和げたまま、静かに三右衛門の話し出すのを待った。三右衛門は間もなく話し出した。「ただこう云うことがございました。試合の前日でございまする。数馬は突然わたくしに先刻の無礼を・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・が、その間も勿論あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、私の前に坐っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、――これが象徴でなくて何・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・もっともおはまは、出立という前の夜に、省作の居間にはいってきて、一心こめた面持ちに、「省さんが東京へ行くならぜひわたしも一緒に東京へ連れていってください」というのであった、省作は無造作に、「ウムおれが身上持つまで待て、身上持てば・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・彼は国民服を着て、何か不安な面持ちで週刊雑誌を読んでいた。そしてふと顔を上げて、私を見ると、あわてて視線を外らした。 私の髪の歴史も以上で終りである。私の長髪にはささやかな青春の想い出が秘められていると書いたが、思えば青春などどこにもな・・・ 織田作之助 「髪」
・・・戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳せば、笑うごとき面持してゆるやかに歩みを運ぶ様は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして媚を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて溺るる人を憐・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・平ノ左衛門尉はさすがに一言も発せず、不興の面持であった。 しかるに果して十月にこの予言は的中したのであった。 彼はこの断言の時の心境を述懐して、「日蓮が申したるには非ず、只ひとへに釈迦如来の御神我身に入りかはせ給ひけるにや。我身なが・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・次郎は今さらのように、亡くなった母さんをさがすかの面持で、しきりに私たちの話に耳を傾けていた。私が自分の部屋を片づけ、狭い四畳半のまん中に小さな机を持ち出し、平素めったに取り出したことのないフランスみやげの茶卓掛けなぞをその上にかけ、その水・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 年老いたきこりは、不思議そうな面持で、崖のしたを覗いた。「や、ほんとだ。女が浪さ打ちよせられている。ほんとだ。」 私はそのときは放心状態であった。もし、そのきこりが、お前がつき落したのだろうと言ったら、私はそうだと答えたにちが・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・なんですか、とわが呆然たる敵手は、この時、夢より醒めたる面持にて老生に問い、老生は這い廻りながら、いや、入歯ですがね、たしかに、この辺に、などと呟いて、その気まりの悪さ。古今東西を通じて、かかるみじめなる経験に逢いし武芸者は、おそらくは一人・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・そろそろと膝行して三畳間に進み、学生たちもおくれては一大事というような緊張の面持でぴったり私に附き添って膝行する。私たちは七輪の前に列座して畳に両手をつき、つくづくとその七輪と薬鑵を眺めた。期せずして三人同時に、おのずから溜息が出た。「・・・ 太宰治 「不審庵」
出典:青空文庫