・・・甚太夫は指南番の面目を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎くなった。そこで甚太・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・按ずるに無条件の美人を認めるのは近代人の面目に関るらしい。だから保吉もこのお嬢さんに「しかし」と云う条件を加えるのである。――念のためにもう一度繰り返すと、顔は美人と云うほどではない。しかしちょいと鼻の先の上った、愛敬の多い円顔である。・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・かかる保証を有ちながら、私が所有地解放を断行しなかったのは、私としてはなはだ怠慢であったので、諸君に対しことさら面目ない次第です。 だいたい以上の理由のもとに、私はこの土地の全体を諸君全体に無償で譲り渡します。ただし正確にいうと、私の徴・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・従って、もしも此処に真に国家と個人との関係に就いて真面目に疑惑を懐いた人があるとするならば、その人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よりも深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。そして、輓近一部の日本人によって起されたところの・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・「ええ、」 と仰いで顔を視た時、紫玉はゾッと身に沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。「貴方なら、貴方なら――なぜ、さすろうておいで遊ばす。」 坊主は両手で顔を圧えた。「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・民子は真面目になって、お母さんが心配して、見てお出で見てお出でというからだと云い訣をする。家の者は皆ひそひそ笑っているとの話であった。 そういう次第だから、作おんなのお増などは、無上と民子を小面憎がって、何かというと、「民子さんは政・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ この淡島堂のお堂守時代が椿岳本来の面目を思う存分に発揮したので、奇名が忽ち都下に喧伝した。当時朝から晩まで代る代るに訪ずれるのは類は友の変物奇物ばかりで、共に画を描き骨董を品して遊んでばかりいた。大河内子爵の先代や下岡蓮杖や仮名垣魯文・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 爾来幾年、雑司ヶ谷の墓地も面目を変えた。文化の風は、こゝにも吹き込んだようである。知己、友人の幾人かは、その間に、こゝへ葬られて眠っている。 いま、墓畔近く、居して、こゝを散歩すると、それ等の人達の墓を巡詣すべく、習慣づけられてし・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・ いや、こうなって見るとちと面目ねえ、亭主持ちとは知らずに小厭らしいことを聞かせて。お光さん、どうか悪く思わねえでね、これはこの場限り水に流しておくんなよ」「どうもお前さんが、そう捌けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫