・・・ 私は、ひとの容貌や服装よりも、声を気にするたちのようである。音声の悪いひとが傍にいると、妙にいらいらして、酒を飲んでもうまく酔えないたちである。その四十前後の女中は、容貌はとにかく、悪くない声をしていた。若旦那、と襖のかげで呼んだ時か・・・ 太宰治 「母」
・・・ 有色映画 音声を得た映画がさらに色彩を獲得することによっていかなる可能性を展開するかという問題がある。 無声映画の時代にフィルムを単色に染めることによってあるいは月夜、あるいは火事場の気分を出したことがあった。・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 有声映画に取り入れられる音声も、単に話の筋道をはこぶための会話の使用にはたいてい先が見えている。やはり「音の影法師」のようなものに遠い未来があるであろう。 このごろ見たうちで、アメリカの川船を舞台としたロマンスの場面中に、船の荷倉・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ともかくも、人間の音声に翻訳した鳥の鳴き声と、本物とのレコードをたんねんに比較してみるという研究もそれほどつまらない仕事ではないであろうと思われるのである。 寺田寅彦 「疑問と空想」
・・・あるいは自然界の雑多な音響を真似てそれをもってその発音源を代表させる符号として使ったり、あるいはある動作に伴う努力の結果として自然に発する音声をもってその動作を代表させた事もあろう。いずれにしても、こういう風にしてある定まった声が「言葉」と・・・ 寺田寅彦 「言語と道具」
・・・ 文章会で四方太氏が自分の文章を読み上げる少しさびのある音声にも、関西なまりのある口調にも忘れ難い特色があったが、その読み方も実にきちんとした歯切れのいい読み方であった。「ホッ、ホッ、ホッ」と押し出すような特徴ある笑声を思い出すのである・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・これは前述のような理由で音声の音色が変わる事と、反射面に段階のあるために音が引き延ばされまた幾人もの声になって聞こえる事と、この二つの要素がちゃんとつかまれていたからである。思うにこの役者は「木魂」のお化けをかなりに深く研究したに相・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・それから身体が生れ代ったように丈夫になって、中音の音声に意気な錆が出来た。時々頭が痛むといっては顳へ即功紙を張っているものの今では滅多に風邪を引くこともない。突然お腹へ差込みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆にお茶漬を三杯もかき込んで・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・かく説明する僧侶の音声は如何によく過去の時代の壮麗なる式場の光景を眼前に髣髴たらしめるであろうか。 自分は厳かなる唐獅子の壁画に添うて、幾個となく並べられた古い経机を見ると共に、金襴の袈裟をかがやかす僧侶の列をありありと目に浮べる。拝殿・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・換言すれば感覚的なる自然と感覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるものに対して趣味、すなわち好悪、すなわち情、を有しております。だか・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫