・・・――その後二月とたたないうちに、突然官命を受けた夫は支那の漢口の領事館へ赴任することになるのです。 主筆 妙子も一しょに行くのですか? 保吉 勿論一しょに行くのです。しかし妙子は立つ前に達雄へ手紙をやるのです。「あなたの心には同情す・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使い給え。………その右にあるのは日清汽船会社。」 僕は葉巻を銜えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騒音だった。・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・大神宮のすぐ下にソビエト領事館がある。これも面白い事実である。門の鉄扉の外側に子守が二、三人立って門内の露人の幼児と何か言葉のやりとりをしていると、玄関から逞しいロシア婦人が出て来て、逞しいむき出しの腕でその幼児を軽々と引っかかえて引込んで・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ 自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもど・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・この室にはベランダはなかったが、バルコンのついた仏蘭西風の窓に凭ると、芝生の向に事務所になった会社の建物と、石塀の彼方に道路を隔てて日本領事館の建物が見える。その頃には日本の租界はなかったので、領事館を始め、日本の会社や商店は大抵美租界の一・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・何だか馬鹿らしく滑稽で私はお湯の中で笑い出したけれど、今年の豆撒きにはイギリスとかアメリカの領事館か何かの人が裃を着て豆をまきに護国寺へ出かけたのだそうです。私はおふろの中で赤毛碧眼の若いひとが裃をつけてどんな発音でフクワうちと叫ぶであろう・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・来たのはハコダテの領事館づき。その頃はこだては榎本武揚の事があった故か仙台の浪人が多く居た。一人、四国の漢学者の浪人アリ。攘夷論の熾なとき故一つ殺してやろう、その前に何というかきいてやれと会った。ニコライ、まだ来たて故日本語下手だが話して居・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・左側に古風な建物の領事館などある。或角を曲った。支那両替屋の招牌が幌を掠めた。首をこごめて往来をのぞくと、右手に畳を縫って居る職人、向側の塵埃っぽい大硝子窓の奥で針を働して居る洋服工、つい俥の下で逃げ出す鶏を見乍ら丸髷に結った女と喋って居る・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ そういう心持を私は、こちらに来て、幾度も考えさせられた。領事館へ行って、うちの母の体がひどく悪いのだからと云って、話したとき、美濃部などは、何の注意もそれには向けなかった。そういう興亢した気分にある私をつかまえて、河原は、岩本さんの不・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
出典:青空文庫