・・・それも私風情の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂を天主に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもござ・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・しかしまたそのほかにも荒廃を極めたあたりの景色に――伸び放題伸びた庭芝や水の干上った古池に風情の多いためもない訣ではなかった。「一つ中へはいって見るかな。」 僕は先に立って門の中へはいった。敷石を挟んだ松の下には姫路茸などもかすかに・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・ しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微に揺いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸のあるは悉く死して、かかる者のみ漾う風情、ただソヨとの風もないのである。 十 その中に最も人間に・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・山の蔭に滝谷ありて、布引の滝の源というも風情なるかな。上るに三条の路あり。一はその布引より、一は都賀野村上野より、他は篠原よりす。峰の形峻厳崎嶇たりとぞ。しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。漣の寄する渚に桜貝の敷妙も、雲高き夫人の御・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・て褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡に糸の乱るるがごとく縺れて、艶に媚かしい上掻、下掻、ただ卍巴に降る雪の中を倒に歩行く風情になる。バッタリ真暗になって、……影・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・さすがにお光さんは平気でいられない風情である。予はことさらに空を眺めて困った雨ですなアなど平気をよそおう。「あなたはほんとにおしあわせです」 お光さんはまず口を切った。「なにしあわせなことがあるもんですか、五人も六人も子どもがあ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。 おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・何か日々の営みのなつかしさを想わせるような風情でした。私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました。そしてふと想いだした文子の顔は額がせまくて、鼻が少し上向いた、はれぼったい瞼の、何か醜い顔だった。キンキンした声も・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・写本師風情との結婚など夢想だに価しなかったのだ。わずかに、お君の美貌が軽部を慰めた。 某日、軽部の同僚と称して、蒲地某が宗右衛門の友恵堂の最中を手土産に出しぬけに金助を訪れ、呆気にとられている金助を相手によもやまの話を喋り散らして帰って・・・ 織田作之助 「雨」
・・・しかし人の家の内部というものにはなにか心惹かれる風情といったようなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、ある日その沿道に二本のうつぎを見つけた。 自分は中学の時使った粗末な検索表と首っ引で、その時分家の近くの原っぱや雑木林へ卯の・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫