・・・その青年は新聞配達夫をしていた。風邪で死んだというが肺結核だったらしい。こんな奇麗な前庭を持っている、そのうえ堂々とした筧の水溜りさえある立派な家の伜が、何故また新聞の配達夫というようなひどい労働へはいって行ったのだろう。なんと楽しげな生活・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・』などとまぜ返しを申し候ことなり、いよいよ母上はやっきとなりたもうて『お前はカラ旧癖だから困る』と答えられ候、『世は逆さまになりかけた』と祖父様大笑いいたされ候も無理ならぬ事にござ候 先日貞夫少々風邪の気ありし時、母上目を丸くし『小・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ その次の夜も次の夜も吉次の姿見えず、三日目の夜の十時過ぎて、いつもならば九時前には吉次の出て来るはずなるを、どうした事やらきのうも今日も油さえ売りにあるかぬは、ことによると風邪でも引いたか、明日は一つ様子を見に行ってやろうとうわさをす・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・蹄鉄の釘がゆるんでいるとか、馬が風邪を引いているとか。けれども、相手の心根を読んで掛引をすることばかりを考えている商人は、すぐ、その胸の中を見ぬいた。そしてそれに応じるような段取りで話をすすめた。彼は戦争をすることなどは全然秘密にしていた。・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 暫らくたつと、弟を背負って隣家へ遊びに行っていた祖母が帰ってきて、「まあ、京よ、風邪でも引いたんかいや。――頬冠りだけは取って寝え。」と云った。 が彼は、寝た振りをして動かなかった。 夕方には、山仕事に行っていた父母が帰っ・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指には洋銀の戒指して、手頸には風邪ひかぬ厭勝というなる黒き草綿糸の環かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「大将、風邪でも引かしッたか。 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かして一眼見しが、身体はなお毫も動かさず、「日瓢さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。とは云いたれど上りても・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・そして寒い凍え死ぬような一冬を始めてこの山の上で越した時分には風邪ばかり引いていた彼の身体にも、いくらかの抵抗する力が出来たことを悦んだ。ビッショリ汗をかきながら家へ戻って見ると、その年も畠に咲いた馬鈴薯の白い花がうなだれていた。雨に打たれ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・この節は風邪ばかり引いて、嚔ばかり致しております」 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。 マルは尻尾を振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭を撫でてやると、白い毛の長く掩い冠・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・江島さんは平気で、「早く着物を着た方がいい。風邪を引くぜ。ああ、帰りしなに電話をかけてビイルとそれから何か料理を此所へすぐに届けさせてくれよ。お祭が面白くないから、此所で死ぬほど飲むんだ。」「へえ。」と剽軽に返事して、老人はそそくさ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫