・・・たぶん羽虫が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに『幸ちゃんの話は何でした。』『神田の叔父の方へしばらく往っていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』『先生何と言って・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・同時に橇は、飛ぶような速力を出した。つづいて、シーシコフが発射した。 銃の響きは、凍った闇に吸いこまれるように消えて行った。「畜生! 逃がしちゃった!」 三 戸外で蒙古馬が嘶いた。 馭者の呉はなだめるよう・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡ったが、何をとらえることも出来無かった。ただわずかに人の真心――誠というものの一切に超越して霊力あるものということを思い得て、「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・殊に新聞紙の論説の如きは奇想湧くが如く、運筆飛ぶが如く、一気に揮洒し去って多く改竄しなかったに拘らず、字句軒昂して天馬行空の勢いがあった。其一例を示せば、 我日本国の帝室は地球上一種特異の建設物たり。万国の史を閲読するも此の如き建設・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・空飛ぶ鳥を見よ。播かず。刈らず。蔵に収めず。」 骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれ・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・昼間から怪しかった雲足はいよいよ早くなって、北へ北へと飛ぶ。夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火一つ見え・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば、横堀に鶉なく頃も近きぬ。朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・頬白が桑の枝から枝を渡って懶げに飛ぶのを見ると赤は又立ちあがって吠える。桑畑から田から堀の岸を頬白が向の岸へ飛んでなくなるまでは吠える。そうして赤は主人を見失うのである。そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこんで首を垂れて極めて小刻みに帰って行・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫