・・・わが私の餞別ならず、里見殿の賜ものなるに、辞わで納め給えと言う。」――僕はそこを読みながら、おととい届いた原稿料の一枚四十銭だったのを思い出した。僕等は二人ともこの七月に大学の英文科を卒業していた。従って衣食の計を立てることは僕等の目前に迫・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・はたしてきょう、あすのことだか、どうだか分りもしないのに――大丈夫と思い込み、跡は野となれ、山となれ的に楽観していて、田島に対しもし未練がありとすれば、ただ行きがけの駄賃として二十円なり、三十円なりの餞別を貰ってやろうぐらいだろう。と、僕に・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ やがて次郎は番町の先生の家へも暇乞いに寄ったと言って、改まった顔つきで帰って来た。餞別のしるしに贈られたという二枚の書をも私の前に取り出して見せた。それはみごとな筆で大きく書いてあって、あの四方木屋の壁にでも掛けてながめ楽しむにふさわ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 何か私は三人の男の子に餞別でも出したような気がして、自分のしたことを笑いたくもあった。時には、末子が茶の間の外のあたたかい縁側に出て、風に前髪をなぶらせていることもある。白足袋はいた娘らしい足をそこへ投げ出していることがある。それが私・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・尤も十二年前に洋行するとき親戚のものが餞別として一本呉れたが、夫はまだ使わないうちに船のなかで器械体操の真似をしてすぐ壊して仕舞った。夫から外国にいる間は常にペンを使って事を足していたし、帰ってから原稿を書かなくてはならない境遇に置かれても・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・黙語氏が一昨年出立の前に秋草の水画の額を一面餞別に持て来てこまごまと別れを叙した時には、自分は再度黙語氏に逢う事が出来るとは夢にも思わなかったのである。○去年の夏以来病勢が頓と進んで来て、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬように・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・妻が寅彦の所へ餞別をもつて行く。シャツ、ヅボン下、鰻の罐詰、茶、海苔等なり。電話にて春陽堂へ『文学論評』の送付を促がす。売切の由答あり。二十五六日頃再版出来のよし」などと文化史的な興味深い記述の最後に「八重子『鳩公の話』といふ小説をよこす。・・・ 宮本百合子 「含蓄ある歳月」
・・・由子は自分の髪の毛で、小さい三つ組を拵え、指環のような形にし、餞別にそれをお千代ちゃんにやった。 二三年後お千代ちゃんに再び会った時、彼女は銀杏がえしに結った芸者であった。―― 稚かった自分に全然解らなかった生活の力が、お千代ちゃん・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ あなたに申し上げるのを忘れましたが、この間達治さんが広島へ入営したとき、私がお送りした御餞別の僅かな金で、黄色いメリンスの幟をおつくりになりました由。その手紙をお母様からいただき、私はいろいろ感服いたしました。 私の机の上に一寸想・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・紫紐で髪を結えた藤村の父は、僅か九つ、今日なら小学二年生になったばかりの息子を東京へやる餞別として、五六枚の短冊を与えた人である。「行ひは必ず篤敬。云々。」と書き与えた人である。故郷が恋しい、母サンやお祖母サンガ居ナイカラ僕ツマンナイヤ、と・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
出典:青空文庫