・・・この時の俺の心もちは恐怖と言うか、驚愕と言うか、とうてい筆舌に尽すことは出来ない。俺は徒らに一足でも前へ出ようと努力しながら、しかも恐しい不可抗力のもとにやはり後へ下って行った。そのうちに馭者の「スオオ」と言ったのはまだしも俺のためには幸福・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・それはなにか驚愕のような身振りに見えた。すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、そ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 彼は思わず驚愕の叫びを発した。 彼等が下って来るまで、見渡す限り雪ばかりで、犬一匹、人、一人見えなかった山の上に、茶色のひげを持った露西亜人が、毛皮の外套を着、銃を持って、こちらを見下しているのであった。それは馬賊か、パルチザンに・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ この驚愕は自分をして当面の釣場の事よりは自分を自分の心裏に起った事に引付けたから、自分は少年との応酬を忘れて、少年への観察を敢てするに至った。 参った。そりゃそうだった。何もお前遊びとは定まっていなかったが……と、ただ無意識で・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・君の眼は、嘘つきの眼ですね、と突然言ってその新来の客を驚愕させる痩せた男は、これも男爵でなかった。それでは男爵はどこにいるか。その八畳の客間の隅に、消えるように小さく坐って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵である。頗るぱっとしない・・・ 太宰治 「花燭」
・・・私はふたたび驚愕の眼を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利道が涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。蛇の皮のふとい杖をゆるやかに振って右左に・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・家の者に知らせたら、家の者は顔色を変えて驚愕していたが、私には「やっぱり、そうか」という首肯の気持のほうが強かった。 けれども、さすがにその日は、落ちつかなかった。私は山岸さんに葉書を出した。「三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事・・・ 太宰治 「散華」
・・・老画伯は驚愕した。「つまらない絵じゃありませんか。あなた達は、お金持の奥さんに、おべっかを言っていただけなんだ。そうして奥さんの一生を台無しにしたのです。あの人をこっぴどくやっつけた男というのは僕です。」「そんなに、つまらない絵でも・・・ 太宰治 「水仙」
・・・あたかも、一勇士を葬らわんとて飛行機に乗り、その勇士の眠れる戦場の上空より一束の花を投じても、決してその勇士の骨の埋められたる個所には落下せず、あらぬかなたの森に住む鷲の巣にばさと落ちて雛をいたずらに驚愕せしめ、或いはむなしく海波の間に浮び・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・とにかく、長き脇指には驚愕した。「行燈ゆりけす」という描写は流石である。長き脇指を静かに消してしまった。まず、まずどうにか長き脇指の仕末がついて、ほっとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放った。曰く、 道心のおこりは花のつぼ・・・ 太宰治 「天狗」
出典:青空文庫