・・・ やがて三たび馬の嘶く音がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚りて、かの人の出るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ やがて、電燈のスイッチがパチッと鳴ると同時に部屋が明るくなった。深谷が寝台から下りてスリッパを履いて、便所に行くらしく出て行った。 安岡の眼は冴えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。 ――人の息だった。体温だっ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。 二人はしばらくだまったまま、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。 風はまだやまず、窓ガラスは雨・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・鳴ろうとして鳴るためには何かがかけているという心の状態が朝子によって現わされている。「一本の花」は、作者にとって、作家生活の前半期のピリオドとなった作品である。「貧しき人々の群」から、さまざまな小道に迷いこみながら「伸子」に到達し、それから・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第四巻)」
・・・』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュールダンの大広間は中食の人々でいっぱいである。それと同様、広い庭先は種々雑多の車が入り乱れている――大八車、がたくり馬車、・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・木村は号砲が鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。 二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。「日出新聞社のもので・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ボーン悩と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆かと思われる。 人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向って字をば読まずに、いよいよ胸の中に物思いの虫をやしな・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようにな・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その声が思ったより高く一間の中に響き渡ると、返事をするようにどの隅からもうめきや、寝返りの音や、長椅子のぎいぎい鳴る音や、たわいもない囈語が聞える。 フィンクは暫くぼんやり立っていた。そしてこう思った。なるほどどこにもかしこにも、もう人・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫