・・・ お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿の子の帯上げを結んでいた。「どこへ?」「弥勒寺橋まで行けば好いんです。」「弥勒寺橋?」 牧野はそろそろ訝るよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちを唆るの・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・身を投げて程も無いか、花がけにした鹿の子の切も、沙魚の口へ啣え去られないで、解けて頸から頬の処へ、血が流れたようにベッとりとついている。 親仁は流に攫われまいと、両手で、その死体の半はいまだ水に漂っているのをしっかり押えながら、わなわな・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向けに結んで、緋や、浅黄や、絞の鹿の子の手絡を組んで、黒髪で巻いた芍薬の莟のように、真中へ簪をぐいと挿す、何転進とか申すのにばかり結う。 何と絵蝋・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・――いかに、いかに、写真が歴々と胸に抱いていた、毛糸帽子、麻の葉鹿の子のむつぎの嬰児が、美女の袖を消えて、拭って除ったように、なくなっていたのであるから。 樹島はほとんど目をつむって、ましぐらに摩耶夫人の御堂に駈戻った。あえて目をつむっ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・「その日は、当寺へお参りに来がけだったのでね、……お京さん、磴が高いから半纏おんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、というと、カタカタと薄歯の音を立てて家ン中へ入ったろう。私が後妻に赤くなった。 負ってい・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・「ドイツ鈴蘭。」「イチハツ。」「クライミングローズフワバー。」「君子蘭。」「ホワイトアマリリス。」「西洋錦風。」「流星蘭。」「長太郎百合。」「ヒヤシンスグランドメーメー。」「リュウモンシス。」「鹿の子百合。」「長生蘭。」「ミスアンラアス。」・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・その襟がたぶん緋鹿の子か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした縮れた線で描かれている。それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・「鹿の子もよびましょうか。鹿の子はそりゃ笛がうまいんですよ。」 四郎とかん子とは手を叩いてよろこびました。そこで三人は一緒に叫びました。「堅雪かんこ、凍み雪しんこ、鹿の子ぁ嫁ぃほしいほしい。」 すると向うで、「北風ぴいぴ・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・は押してありけり色あせてみにくき花となりしかど 萩と云う名のすてがたきかな雨晴れし後の雨だれきゝてあれば かしらおのづとうなだるゝかなぜんまひの小毬をかゞる我指を 見れば鹿の子を髪にのせたや夜々ごとに来し豆・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
出典:青空文庫