・・・ と、自転車を走らせて急を知らせてくれ、お君が駆けつけると、黄昏の雪空にもう電気をつけた電車が何台も立往生し、車体の下に金助のからだが丸く転がっていた。 ぎゃッと声を出したが、不思議に涙は出ず、豹一がキャラメルのにちゃくちゃひっつい・・・ 織田作之助 「雨」
・・・晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた殺気がふと行き交っていた。 第四角まで後方の馬ごみに包まれて、黒地に白い銭形紋散らしの騎手の服も見えず、その馬に投票していた少数の者もほとんど諦めかけていたような馬が、最後の直線コ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 私は以前とは反対に溪間を冷たく沈ませてゆく夕方を――わずかの時間しか地上に駐まらない黄昏の厳かな掟を――待つようになった。それは日が地上を去って行ったあと、路の上の潦を白く光らせながら空から下りて来る反射光線である。たとえ人はそのなか・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・君はその時、 山は暮れ野は黄昏の薄かなの名句を思いだすだろう。 六 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・廊下づたいに看護婦の部屋の側を通って、黄昏時の庭の見える硝子の近くへ行って立った。あちこちと廊下を歩き廻っている白い犬がおげんの眼に映った。狆というやつで、体躯つきの矮小な割に耳の辺から冠さったような長い房々とした毛が薄暗い廊下では際立って・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・丘の上の一つ家の黄昏に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、「おばさんもみんな留守なんだそうですね」と・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがなく、海のように深く、曙、黄昏が光りや影を写す天のように澄んだ眼の言語をならいました。唖は、自然が持っているような、寂しい壮麗さを持っているのです。其故、他の子供達は、スバ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏の海を眺める。 太宰治 「海」
・・・はじめからいけなかった。黄昏に、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことを妙にひとなつこく搦んで来るような口調で言った。・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・きめてしまって、私は、大泥棒のように、どんどん歩いた。黄昏の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法跡の塚が、ひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利あらずという思いもつかぬ荒い言葉が、口をついて出て、おや? と軽くおどろき、季節・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫