・・・半ば朽ちた其幹は黒い洞穴にうがたれ、枯れた数条の枝の悲しげに垂れ下った有様。それを見ただけでも、私は云われぬ気味悪さに打たれて、埋めたくも埋められぬと云う深い深い井戸の底を覗いて見ようなぞとは、思いも寄らぬ事であった。 敢て私のみではな・・・ 永井荷風 「狐」
・・・覗いたように折れた其端が笠の内を深くしてそれが耳の下で交叉して顎で結んだ黒い毛繻子のくけ紐と相俟って彼等の顔を長く見せる。有繋に彼等は見えもせぬのに化粧を苦にして居る。毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・見上げる軒端を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤の方をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺の本堂の上あたりでククー、ククー。「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。こ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、未だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められていた。それに彼女のがねばりついていた。そして、頭部の方からは酸敗した悪臭を放・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 船底に引きあげられたイイダコは怒って黒い汁を吐く。内側に向かっても放射するのか、全身が黒くなる。そして、八本足で立って歩きながら逃げようとする。イイダコ釣りは面白いので、私はヒマを見つけるとときどき試みるが、一日に六十匹も引きあげたこ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・』 各箇かの団体の、いろいろの彩布の大旗小旗の、それが朝風に飜って居る勇しさに、凝乎と見恍れてお居でなさった若子さんは、色の黒い眼の可怖い学生らしい方に押されながら、私の方を見返って、『なに大丈夫よ。私前に行くからね、美子さん尾いて・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・「ソレ顔の黒い、手足の白い、背中が黒くって腹が白くッて」。「オヤ変な娘ッ子だネ、そうしてその娘ッ子がおとなしくなびいたかい」。「イヤしくじったでがすヨ、尻尾をひッつかまえると驚いて吠えただからネ」。〔月日不詳〕・・・ 正岡子規 「権助の恋」
・・・盛岡の上のそらがまだぼうっと明るく濁って見える。黒い藪だの松林だのぐんぐん窓を通って行く。北上山地の上のへりが時々かすかに見える。さあいよいよぼくらも岩手県をはなれるのだ。うちではみんなもう寝ただろう。祖母さんはぼくにお守りを借して・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・川ふちを、一匹黒い犬が嗅ぎ嗅ぎやって来た。防波堤の下に並んで日向ぼっこをしながら、篤介がその犬に向って口笛を吹いた。犬は耳を立て此方を見たが、再び急がしそうに砂に鼻先をすりつけつつ波打ちぎわへ駆け去った。「あら、一寸こんな虫!」 陽・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫