・・・のん気に鼻唄さえうたっている。 時々廊下で他の「編笠」と会うことがある。然したッた一目で、それが我々の仲間か、それともコソ泥か強盗か直ぐ見分けがついた。――編笠を頭の後にハネ上げ、肩を振って、大股に歩いている、それは同志だった。暗い目差・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・曳かれもの、身は痩馬にゆだねて、のんきに鼻歌を歌う。「私は神の継子。ものごとを未解決のままで神の裁断にまかせることを嫌う。なにもかも自分で割り切ってしまいたい。神は何ひとつ私に手伝わなかった。私は霊感を信じない。知性の職人。懐疑の名人。わざ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・チョコレート二十、ドロップ十個を嚥下し、けろりとしてトラビヤタの鼻唄をはじめた。唄いながら、原稿用紙の塵を吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。頗る態度が悪いのである。 ――あきらめを知らぬ、本能的な女性は・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「巴里へ行く汽車は何時に出るか」と問うてみた。 停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまで・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・また掏摸にすられた中ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ スウスウと缺けた歯の間から鼻唄を洩らしながら、土間から天秤棒をとると、肥料小屋へあるいて行った。「ウム、忰もつかみ肥料つくり上手になったぞい」 善ニョムさんは感心して、肥料小屋に整然と長方形に盛りあげられた肥料を見た。馬糞と、・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・私とは正反対に、非常な快活な奴で、鼻唄で世の中を渡ってるような女だった。無論浅薄じゃあるけれども、其処にまた活々とした処がある。私の様に死んじゃ居ない。で、其女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種の引力を起させる。あな・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ ○ 検察官や夜の宿の時も強く感じたのだが、私共は、俳優諸君が劇中の人物として、何かしながら気軽に口笛を吹いたり、一寸巧者にピアノに触ろうとしたり、鼻歌でも唱おうとする時、何故とも知らず居心地わるい程、跋のわ・・・ 宮本百合子 「「三人姉妹」のマーシャ」
・・・ 印袢纏にゴム長靴を引ずった小僧が、岡持を肩に引かつぎ、鼻唄まじりで私の傍によって来た。どんな面白いものを見ているのか、と云う風で。 彼は、一寸立ち止る。じろりと見渡す。何処も彼処も、彼には一向面白可笑しくもないラムプスタンドばかり・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。 庄兵衛は心の内に思った。これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫