・・・これはつんと尖った鼻の先へ、鉄縁の鼻眼鏡をかけたので、殊にそう云う感じを深くさせた。着ているのは黒の背広であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。――その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこっちへ眼を・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・先生は鼻眼鏡を隆い鼻のところに宛行って、過ぎ去った自分の生活の香気を嗅ぐようにその古い洋書を繰りひろげて見て、それから高瀬にくれた。 正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉は隅のところに大きな机を控えて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で軽くおさえ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it. と一語ずつ区切っては・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ 鼻眼鏡でぬうっと澄ましていて、そうして何でも実によく知っているルーベンスの傍に、無邪気で気軽く明るいプランクがいて、よくわれわれでも知っているような実験的の事実を知らないで質問する、若い連中が得意になってそれを説明するのを感心して謹聴・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・急いではねをひろげ姿勢を直し、大尉の居る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山烏が鼻眼鏡などをかけてふたりの前にやって来て、大尉に握手しようとします。大尉が、いかんいかん、と云って手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃を出し・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・綿花を栽培し、織物工場で働く耳輪だけ大きい痩せたインド人の後に、ヘルメット帽をかぶり、鼻眼鏡を光らしたイギリス人がいた。 ソヴェトの子供は、幼稚園で、或は小学校で、自然界と人間社会との関係を、日常のあらゆるいきた労作の中から直接学びとる・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・遠くの海に艦隊がきた。鼻眼鏡をつけ顎に髯のあるチェホフが、独身暮しの医者が、双眼鏡をとって海上の艦隊を眺める。 町では小歌劇、蚤の見世物。クニッペルがひらひらのついた流行型のパラソルをさしてそれを女優らしく笑いながら観ている。チェホフは・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
出典:青空文庫