・・・乳母の懐に抱かれて寝る大寒の夜な夜な、私は夜廻の拍子木の、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中に遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、夜ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊・・・ 永井荷風 「狐」
・・・星明かなる夜最後の一ぷくをのみ終りたる後、彼が空を仰いで「嗚呼余が最後に汝を見るの時は瞬刻の後ならん。全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に入る無限、手に触るる無限、これもまた我が眉目を掠めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋れたる声にてわれに語る御身の声・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・たとへば日蓮は日蓮の個性に於て、親鸞は親鸞の個性に於て、同じ一人の釈迦を別々に解釈し――ああいかに彼等の解釈がちがつてゐたか。――そして私らは私らの個性に於て、私ら自身の趣味にふさはしいところのゲーテやシヨパンを、各自に別々に理解するまでの・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・おまけに竹刀でバシバシと、すこたんを遠慮なしに打ん殴りやがったっけ。ああなると意気地のねえもんだて、息がつけねえんだからな。フー、だが、全く暑いよ」 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「今行くッたらいいじゃアないか。ああうるさいよ」と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・かつまた、後来この挙に傚い、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾曹をみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・「ああ。そんな事はどうでもいいのだ。十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・あの苦労の影を熟く味ったら、その中からどれ程嬉しさが沸いたやら知れなんだ物を。ああ、悲の翼は己の体に触れたのに、己の不性なために悲の代に詰まらぬ不愉快が出来たのだ。もう暗くなった。己はまた詰まらなくくよくよと物案じをし出したな。ほんにほんに・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫