・・・ 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江藩の侍たちと一しょに、一月ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸、その侍の・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ その刹那に陳の眼の前には、永久に呪わしい光景が開けた。………… 横浜。 書記の今西は内隠しへ、房子の写真を還してしまうと、静に長椅子から立ち上った。そうして例の通り音もなく、まっ暗な次の間へはいって行った。 スウィッチ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・良人の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。 K市街地の町端れには空屋が四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏のそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住ん・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ぼくたちをおくとすぐまた出かけて行った橋本のおじさんが、びっしょりぬれてどろだらけになって、人ちがいするほど顔がよごれて帰って来たころには、夜がすっかり明けはなれて、ぼくの家の所からは黒いけむりと白いけむりとが別々になって、よじれ合いながら・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・もう目を醒ます。そこにもここにも、寒そうにいじけた、寐の足りないらしい人が人道を馳せ違っている。高架鉄道を汽車がはためいて過ぎる。乗合馬車が通る。もう開けた店には客が這入る。 フレンチは車に乗った。締め切って、ほとんど真暗な家々の窓が後・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・熱いので明けてある窓からは人の呼吸が静かに漏れる。人は皆な寝て居るのだ。犬は羨ましく思いながら番をして居る。犬は左右の眼で交る交る寝た。そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼をみひらいた。種々な物音がする。しかしこの春の夜の・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭主が、売溜の銭箱の蓋を圧えざまに、仰向けに凭れて、あんぐりと口を開けた。 瓜畑を見透しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」 主人は火鉢にかざしながら、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・社会問題攻究論者などは、口を開けば官吏の腐敗、上流の腐敗、紳士紳商の下劣、男女学生の堕落を痛罵するも、是が救済策に就ては未だ嘗って要領を得た提案がない、彼等一般が腐敗しつつあるは事実である、併しそれらを救済せんとならば、彼等がどうして相・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
出典:青空文庫