・・・都合の良い事には、三等車は、やけに混雑していた。それは、網棚にでも上りたいほど、乗り込んでいた。 その時はもう、彼の顔は無髭になっていた。 彼は、座席へバスケットを置くと、そのまま食堂車に入った。 ビールを飲みながら、懐から新聞・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・じゃ、何うすりゃ好いかと云うに、矢張りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要するに人間生きてる以上は思想を使うけれども、それは便宜の為に使うばかり。と云う考えだから、私の主義は思想の為の思想でもなけりゃ芸術の為の芸術でもなく、また科・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから・・・ 正岡子規 「画」
・・・すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。セララバ・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔に・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ いかにも気持が良い空の色だ。 はっきりした日差しに苔の上に木の影が踊って私の手でもチラッと見える鼻柱でも我ながらじいっと見つめるほどうす赤い、奇麗な色に輝いて居る。 こんな良い空を勝手に仰ぎながら広い「野っぱ」を歩いて居る人が・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・黒船が来て、井伊直弼が暗殺されて、開港した後進国の日本が、ヨーロッパ資本主義列強に伍してアジアで唯一の一等国になったということは、どんなに複雑な明日の日本の立場を暗示するものか、ということは一般の感情には感じられなかった。 明治以来の日・・・ 宮本百合子 「平和への荷役」
・・・しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行けば好いと思う。 そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知らないものが見たら、何が面白くてあんな顔をしているかと怪むことだろう。 顔を洗い・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。 家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜない・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫