・・・その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静である。時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂っている墨の匂を動かすほどの音さえ立てない。 内蔵助は、ふと眼・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・机を向かい合わせた同僚にも格別異状などは見えなかったそうである。が、一段落ついたと見え、巻煙草を口へ啣えたまま、マッチをすろうとする拍子に突然俯伏しになって死んでしまった。いかにもあっけない死にかたである。しかし世間は幸いにも死にかたには余・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・同仁病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏脳溢血を患い、三日間人事不省なりしより、爾来多少精神に異常を呈せるものならんと言う。また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人の問わんと・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口の性格から必然に湧いて来たような心も・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・しかし幸い脳にだけは異状も来ずにいるらしかった。伯母はまだこのほかに看護婦は気立ての善さそうなこと、今夜は病院へ妻の母が泊りに来てくれることなどを話した。「多加ちゃんがあすこへはいると直に、日曜学校の生徒からだって、花を一束貰ったでしょう。・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・の教を信じない、ヨセフの心にさえ異常な印象を与えた。彼の言葉を借りれば、「それがしも、その頃やはり御主の眼を見る度に、何となくなつかしい気が起ったものでござる。大方死んだ兄と、よう似た眼をしていられたせいでもござろう。」 その中にクリス・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・――そう云う天竺の寓意譚は、聞くともなく説教を聞いていた、この不幸な女の心に異常な感動を与えました。だからこそ女は説教がすむと、眼に涙をためたまま、廊下伝いに本堂から、すぐに庫裡へ急いで来たのです。「委細を聞き終った日錚和尚は、囲炉裡の・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・しかし、これは一方では私の精神に異状がないと云う事を証明すると同時に、また一方ではこう云う事実も古来決して絶無ではなかったと云う事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思われるのでございます。 歴史上、最も著名な実例の一つ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘くゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注・・・ 有島武郎 「親子」
・・・しかし歌を作ってる以上はやっぱり歌人にゃ違いないよ。おれもこれから一つ君を歌人扱いにしてやろうと思ってるんだ。A 御馳走でもしてくれるのか。B 莫迦なことを言え。一体歌人にしろ小説家にしろ、すべて文学者といわれる階級に属する人間は無・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
出典:青空文庫